2022/02/13

●『京騒戯画』の第0話「予習編」がYouTubeで観られる(U-NEXTなら全話観られる)。このアニメ、放送からもう十年以上前になるのだな。

https://www.youtube.com/watch?v=5IqFukYQAAU

面白いのは、コメント欄に、《頭の片隅にある思い出せないアニメ、ただの夢かと思ってたけど、これだったかあの記憶!!》と書き込まれていて、さらにこのコメントに多くの賛同のコメントが連なっているところ。

アニメに限らず、このコメントのようにしてあることが、芸術というもののとてもよいあり方なのだと、ぼくは思う。しかしこれもまたアニメに限らず様々なメディアにおいてだが、「夢のようにつかみ所がないことによる強さ」としてあり得る可能性は、ことごとく「(現状をよりよく説明できる)よい物語をよく語ることができる」という可能性に負けてしまう。これはおそらく、夢に共同性や社会性をもたせるためには、夢の強さを、共同的に受け入れ可能なナラティブに翻訳する必要があるからだろう。

しかし、夢の強さは、我々の感覚可能な三+一次元の時空の枠をはみ出した時空で、我々が知っている因果をはみ出た因果によって展開することによる(「展開」という語が既に、三+一次元の時空を前提にしてしまっているが)。夢は、カント的な経験の条件をはみ出た経験を、我々にもたらす。それが夢による経験の強さとなる。だからそれは必然的に脱社会的なものだ。しかし、脱社会的なものだからといって、個に閉ざされているというわけではないはずだ。

(一昨日の日記のつづきだが、夢は脱社会的なものであり、個に閉ざされたものであるから、それを開くためにはナラティブが必要だというのが、ヴェンダースの『夢の涯てまでも』の結論であり、ぼくはそれに大きな不満をもつ。)

(実写映画の可能性は、人の表情や視線、佇まい、風景のなかの光のありようなどを、言語を媒介とせず直接提示出来て、さらにそれらを三+一次元の時空とは別の秩序でモンタージュできるというところにあったはずだ。)

(勿論、共同的に受け入れ可能であり、現状をよりよく説明しうる、よりよいナラティブを創造することは、常にとても重要なことだ。それを否定するのではない。しかし、それとは「別の次元のこと」があり、それが軽んじられているように思うのだ。)

当然だが、《頭の片隅にある思い出せないアニメ、ただの夢かと思ってたけど、これだったかあの記憶!!》というのもひとつのナラティブである。このナラティブは、『京騒戯画』を観た経験を「よりよく説明する」ものだ。だからこそ多くの賛同のコメントが寄せられる。だがこのナラティブは、頭のなかにあるのに思い出せない、夢のような状態が、その言い方で「そのまま」共有可能であるかのように語っているナラティブである。

(たとえば「神話」は、まさに「世界の成り立ちを説明する共有されたナラティブ」である。しかしその時空のあり方や因果のあり方は、我々が自然主義的に感じている三+一次元の時空よりも、夢に近いように感じられる。)