2022/02/14

●『夢の涯てまでも【ディレクターズカット版】』を観た勢いで、久々に『まわり道』をU-NEXTで観た。面白かった。

まず、ここまで徹底して暗い顔をして鬱々とした人ばかりが出てくる映画は、最近はあまりないのではないかと思う。暗い人たちが、暗い顔をして、ひたすら暗い話ばかりをする映画。音楽もまた、ヴェンダースの好むロック(というかアメリカ音楽)が封印され、現代音楽風の陰鬱な響きで覆われる(劇中で老人の吹くブルースハープのみが、かすかにアメリカ音楽の匂いを感じさせる)。しかし、その暗い人たちの集いというか、暗い友達の会合が、その暗さの共鳴においてどこか楽しげというか、暗い仲間と出会えたことによる、ダウナーな幸福感がある。このダウナーな幸福感こそがこの映画であり、それがとてもよい感じなのだ。とはいえ、このダウナーな幸福感が、一人の男の自殺と、老人の過去の発覚(ナチ党員でユダヤ人を殺したこともある)によって崩壊する、という映画だと、大ざっぱには言える。

明らかに心を病んでおかしくなっている息子を心配した母親が、自分の店を売って引退し、売った金の半分を息子に与えて「旅に出る」ことをうながす。そして旅に出たとたんに、この暗くて孤独な男のまわりに(ご都合主義的に)暗い仲間たちがみるみる集う。謎の老人、少女、女優、あやしい詩人。男は、二人の女性(少女、女優)からモテてハーレム状態ですらある。暗い仲間たちが集い、互いに通じ合っているかどうかも怪しい、暗くて文学的なことを言い合い(その内容はともかく彼らはその「暗さ」によって通じ合っている)、そして、連れだって練り歩く。この映画は、ひたすら語り合い、ひたすら歩く映画だ。

この映画の質を決定しているというか、(ヴェンダース自身の作品も含めて)他とは異なる際立ったものにしているのは、二つある、五人で練り歩く場面だろう。

男は、乗換駅で目が合い、併走する電車の窓から見つめ合っただけの女を、電話して呼び出すことに成功する(たまたま電車に乗り合わせた謎の老人が、なぜかその女が女優であること、そして彼女の電話番号まで知っている)。三人(男、少女、老人)の泊まるホテルまで車でやってきた女優、そして、たまたま三人の会話をホテルのカフェで聞いたあやしい詩人の五人が、ホテルのあるボンの町を練り歩く。女優は男と二人きりになりたいが、後から老人と少女もついてくる。男に気がある少女は、男と女優が「いい感じ」になるのを邪魔しようとする。そしてそんな四人を、彼らに感心をもった詩人が尾行する。このようにして五人がただボンの街を歩くだけの場面が、これぞヴェンダースという独特の時間を作り出す。

また、詩人が、自分の叔父がお金持ちで郊外に屋敷があるから一緒に行こうと提案し、五人で連れ立って女優の車でそこに向かうのだが、着いたその屋敷は叔父のものではなく、その主は今まさに自殺しようとしいてるところだった。不意の来客によって自殺を思いとどまった主人は五人を招き入れ、ここでもまた、暗い顔をして暗い話をする暗い宴会が暗く盛り上がる。そしてその翌朝、屋敷の付近の山道を五人が会話を交わしながら散歩する場面が延々とつづく。この山道の散歩の場面によって、ヴェンダースが他のどの映画作家とも異なる、ヴェンダースにしかない独自性をもった映画作家として生まれたと言ってもいいのではないかと、今回観て思った(前作の『都会のアリス』では、まだそこまではいっていないのではないか)。それくらい、この散歩の場面はすばらしい。たとえばアンゲロプロスの映画でも人は延々と歩くのだが、それよりもっと緩くて柔らかい運動性があり、ロードムービーとしての「散歩の時間」が生成されていると思う。

(どちらの散歩の場面でも、最後にはみんなが一斉に走り出す。)

しかしこの散歩の途中で、老人がナチの党員だったことが発覚し、男が老人への殺意を口にする。さらに散歩から帰った五人に、屋敷の主の死が待っている。ここから、暗い仲良し五人組の関係がぎくしゃくし始め(男の苛立ちが高まり)、崩壊に至る。最後に男は一人に戻る。

この映画のもう一つの特徴は、視線の繋ぎの多用ではないか。暗い五人組(+暗い別荘の主)の間で会話が交わされるいくつかの場面で、多くの場合、カットとカットが視線(他者の言動に反応する視線)で繋がれている。これが、暗い話をしながらも「孤独ではない」感(ダウナーな幸福感)につながっているのではないか。ひたすら語り合い、ひたすら歩く映画で、語り合いの部分が視線の繋ぎで構成される。