2022/03/10

●『ざくろの色』(セルゲイ・パラジャーノフ)をDVDで観た。ずいぶん久々に観たが、つまりこれは、時間と空間の外で起る出来事であり、時空の因果とも、出来事の因果とも異なる因果によって、事物と事物とが関係する様が表現されているのだなあと思うのだった。

書物は、そこに文字が書かれている紙の束であり、紙は雨水を吸い、吸った水は絞り出される。それは、果実がその内に水を蓄え、それを人が絞り出すこと(たとえばワインをつくるために葡萄を足で踏む)、さらに、布を洗うために水を含ませ、その水を絞ることと響き合う。水を含み、水を吐き出すという共通の性質によって、書物と果実と布とが並立的な関係に置かれる。書物と果実と布が、同一の時空のなかで関係を持つのではないし、因果的に直接関係をもつのでもない。書物と果実と布は、水の性質を媒介として(因果的には無関係なまま)潜在的に関係しているのであり、現実的な時空のなかで、出来事として関係しているわけではない。

そして、生物もまた、血という水分をその内に蓄え、血を流すことで書物や果実や布とのかかわりを表現し、その系統にみすからを置く。

書物や、石でできた建物の壁や、人が着ている衣装は、本や壁や衣装である前に、紙や石や布であり、その質感であり、その色彩である。画面は、空間や出来事の展開を示すよりもまず、質感や色彩や形態の配置とそれが変化するリズムとして現われ、次いでその質感や色が紙や石や布のもつ性質であることが意識され、ようやく最後に、書物や壁や衣装であることが知らされる。いや違うか。書物や壁や衣装であることははじめから分かっているが、この映画の出来事は、その水準で起っているのではなく、質感や色彩や形態の配置とその変化(運動)のリズムとして起っているのであり、その変化のリズムが、紙や石や布という物質を、その違いが識別出来る程度に区切りながらも、非時空的、非出来事的な因果のレベルで響かせて、関係づける。そしてその非出来事的な出来事や関係づけが、一番表面にのっている、書物や壁や衣装という意味の次元の変化や展開を支える。意味は、質感や色や形や性質や運動のリズムの違いによって現われる事物の響き合いや断絶のなかから生まれるのであって、意味から意味へと展開するのではない。というか、意味は勿論あるのだが、その意味を支えているものは意味ではないのだ。

(たとえば、時空的につながらないカットが、運動や形態の類似性やリズムの同一性によってつながりをもつ時、そこには事後的に意味の繋がりも生じるだろう。)

そのような経験を我々が出来るのは、これが映画であって現実ではないからだろう。現実は、時空の因果と出来事の因果に縛られているし、我々の想像力も時空的因果に縛られている。しかし、それでは全然足りないのだ。カメラが写すものは人の知覚とは異なるし、フレームは狭く限られており、スクリーンは平面で別の角度から観ることは出来ない。しかしその制約を逆手にとることで、我々の経験を時空や出来事の因果を超えたものとすることができる。この映画は、決して現実として現われることのないレベルで起っている出来事についての映画だろう。決して現実化されないが、現実の下で常に作用しているものを、なんとかして掴み、形を与えようとするものだ。

比喩というものを、意味のレベルではなく、韻律のレベル(質感や色や形や性質や運動のリズムの違いの配置)で捉えることで、「詩的表現」というものの捉え方が大きく変わるはずだ。