●(昨日の補足)パラジャーノフはアルメニアの映画作家だが、現在ではジョージアとなっているトリビシで生まれ、モスクワで映画を学び、現在ではウクライナであるキエフで映画監督としてのキャリアをスタートさせた(ソ連時代は、このすべてがソ連だったわけだが)
パラジャーノフは、反体制的な映画作家と言えると思うが、ソ連のような、広大な土地、多くの民族を、強い政府が強引に束ねているような場合、反体制的であることの強い根拠としてナショナリズムがありえる。アルメニア人としてのアイデンティティによって、ソ連という体制に対して対抗的である、というように。『ざくろの色』という映画も、アルメニア(カフカス地方)のアイデンティティが強く感じられるもので、それに基づいているようにみえる。しかし、『ざくろの色』が伝統的な、あるいは保守的な作品かというと、そうは言えないだろう。あきらかにアバンギャルドな作品だ。ナショナリズム的であると同時に革新的であるということがありえる。
(ここで、アバンギャルド性を示す証しは、常識的・保守的な時空構造や因果関係の破壊と、その再構築だろう。それがある限り、保守層は受け入れがたいのではないか。)
(ナショナリズム的で、かつ革新的な芸術家として、ナチスを逃れて最終的にアメリカへたどり着く『リトアニアへの旅の追憶』のジョナス・メカス、ソ連から亡命してイタリアで『ノスタルジア』を撮るアンドレイ・タルコフスキー、アルメニア出身でアルメニア人虐殺を生き延びてアメリカへ逃れた画家、アーシル・ゴーキーなども挙げられるのではないか。彼らは、故郷喪失者であることによって、ナショナリズム的でありながらアバンギャルドであらざるを得なくなった、のだろうか…。)
パラジャーノフのアバンギャルドは、たとえばマレーヴィッチ(ウクライナ出身だ)のアバンギャルドとは異なるだろう。マレーヴィチ的、ロシア構成主義的なアバンギャルド(通常、こちらがアバンギャルドなわけだが)は普遍主義的(数学的・射影幾何学的)で、ナショナリズム的ではない。
●映画史上の重要な作品は、原題か英語タイトルで検索するとYouTubeで観られることがけっこうある。『ざくろの色』も、検索してみると、とても(DVDよりも)画質も音質もよい状態でアップされていた。よい状態なので、YouTubeでもう一度改めて観てしまった。
『ざくろの色』は、最初『サヤト・ノヴァ』というタイトルで公開されたが、当時のソ連の国家映画委員会から難解で退廃的だと非難されて、セルゲイ・ユトケーヴィッチが少しは分かりやすくなるように再編集したものだ。つまり、パラジャーノフのオリジナルそのものではない。ぼくが持っているDVDも、この再編集版だ。
だが、2010年代に入って、アメリカのマーティン・スコセッシ映画財団により、オリジナルのパラジャーノフ・バージョンに近づけるべく修復した「アルメニア・ヴァージョン復元版」がつくられ、DVDやブルーレイも発売されている。復元版の方もYouTubeにないかと検索したら、あった(五分くらい長くなっているので上映時間で分かる)。
前からある『ざくろの色』と「復元版」との最も大きな違いは、前からある版は、分かりやすくするために全体が八つの章に分けられていたが、オリジナルに近いとされる復元版では明確に章立てされているわけではない、というところ。それと、シーンの順番がけっこう違っている。冒頭に長いナレーションが入っている。