●昨日描いた、というより「描けた」、ドローイングを、折に触れて何度も観直し、「うん、確かにここには何かがあるはず」と思ったり、「いや、見えていると思っている〈これ〉はそもそも幻に過ぎないのでは?」と思ったりする。
それにしても、自分で描いていながら、これをどうやって描いたのかさっぱり分からない。でも、こういう時は、中途半端に描いた感じのイメージを頭で反芻しようとすると、無理矢理に思い描いた不正確な感覚が頭のなかに形として残ってしまうので(疲れている時や気のない時に素振りをすると、精度の悪いフォームを身体が覚えてしまう、みたいなこと)、あえて何も考えず、一回描けたんだから身体のどっかが覚えているはず、ということを信じて何もしない方がいい。もしそれが、何か意味のあることであれば、保留に耐える、とか、そのまま寝かしておく、とかすることで、頭の中や身体の中で勝手に熟成が進行する、はず。
こういう時、自分のやったことを言葉で説明して、自分で納得してしまうのは最悪のことだ。言葉を使って(助けられて)探ってゆくこと、あるいは言葉に刺激を受けることは貴重かつ重要だが、言葉によって納得してしまうと、そこで行為や探求が固着してしまって、うまく動けなくなる。この点に関しては、かなり大きな警戒が必要だと思う。
ただ、偶然にしろ、そこで「捉えられたもの」が本物かどうか(それを問題にするに足りるものかどうか、「それって、ほんとに面白いの?」ということ)だけを、描いたものを時間をかけて何度も観直すなかで、少しずつ検証してゆく。
しかしまた、それと同時並立的に(「描けたこと」を反芻するのではない、別方向の)描くこともやっていく。偶然であるにしろエラーであるにしろ、描くという行為のなかで自分が「やってしまった」ことを拾って、フィードバックして、それによって自身の描く行為の体系−技術を再帰的に変化させてゆく以外に、自分が出来ることの幅を広げてゆく方法はない。実作における技術的な鍛錬とは、規範的なものをディシプリンとして刻みつけることではなく(基本を一つ一つマスターしてゆく、ということではなく)、自分の身体を使って作品を実作してゆくなかで、自分自身の行為をフィードバックしつつ、それを再帰的に(より幅広く、より高い精度、高い密度をもったものへと)再文脈化してゆくということなのだ。描くことによってしか、描くことは鍛えられないし、自分の「描くシステム」を超えてゆこうとすることも出来ない。
じゃあ、作家は屁理屈など言わずにただ描き、つくりつづけさえすればよいのはと言えば、勿論そんなことはない。だいたい、そんな偏狭で不寛容な態度で、柔軟な制作など出来るはずはない。描くという行為によって探ったり見つけたりすることと、描いてしまったことのなかから探ったり見つけたりすることと、それとは別に、普通に現代の「この世界」を生きていて、動いたり考えたり感じたり、見たり読んだりすることのなかから探ったり見つけたりすることとは、そう簡単に一致したりしないとしても、互いに緊密に関係し合っているはずなのだ(言葉を読むこと、言葉を書くことは、この次元では非常に重要)。「描きたい」(考える)ことと、「描いてしまう」(行為する)ことと、「描けたことの意味を検証する」(見る)こととは、別の系列にあってバラバラに進行するのだとしても、ある系列の進行は、必ず別の系列の進行の刺激となるはずなのだ。あるいは、ある日とつぜん、ある系列が別の系列へと突き刺さるようにくい込んでくることもある。ただ、どれか一つの系列を特権化して、他の系列をそれに従わせる(つまり、バラバラなものを無理矢理矛盾なく一致させようとする)というのは最悪だと思う。
●探し物をすると、探している物は見つからず別の物がみつかる、というのはよくあることだ。部屋のなかで河本英夫の『システム現象学』をいくら探しても見つからず、そのかわりに、ずっと探していて半ばあきらめていたパラジャーノフの『ざくろの色』のDVDが、とんでもないところから出てきた。