●今、行っている行為が、現在から時間的に先への方向性をもつ、新たな行為への探索であると同時に、その行為によって遡行的に過去の行為の意味が確定されたり、あるいは行為の組織のあり様が組み替えられるといった過去へと向かうものでもあるというのは、別に言葉を使うという行為の時にだけ成立することでないなあと思いつく。
●一筆、一筆、絵の具を置いてゆく時、それは一筆ごとのその度の行為であるだけでなく、未だ置かれていない、今後置かれてゆくはずの絵の具への可能性を開き、それへの予感を探るものであり、さらに同時に、既に置かれてしまっている絵の具の意味や機能を、確定させたり、動かしたりする。
一筆、一筆、絵の具を置いてゆく行為は、たんにそのようにして一枚の絵を組み立ててゆく過程というだけではなく、絵の具を置く行為そのものを組織し、制御している当のもの、過去の絵の具を引き受け、それを未だ置かれていない絵の具への予感へとつなげてゆく、その「やり方(作法・技量)」そのものをも動かしてゆく。それが可能なのは、今、行っている行為が、既にそのようにしてある「やり方」を形作ってきた過去の行為の集積と、未だ身に着けていない新たな「やり方」によって可能になるだろう行為への予感との、どちらに対しても開かれ、関係していてるからだと思う。
●それはきっと、一語、一語、言葉を書いてゆく、読んでゆく、あるいは発してゆく時にも、基本的にかわらない。しかしそのように、言葉もまた行為として、行為のなかにしかあり得ないのだとしたら、行為の枠内にある言葉は行為のメタレベルとなることは出来ず、つまり言葉によってでは行為を記述し説明することは出来ないということになる。
YouTubeで、養老天命反転地を撮ったとても良い映像をみつけた。
http://www.youtube.com/watch?v=MVoeQSCGLFg&feature=related
普通に、お父さんが家族連れで遊びに行って、子供を撮ったものを編集した映像だけど、子供がすごく楽しそう。ぼくも子供の時に「ここ」に行きたかったと、うらやましく思った。子供の身体を通すと見えてくるものがいろいろある。お兄ちゃんと弟の二人組というのも、この空間にとてもあっているんじゃないだろうか。あと、これは去年のゴールデンウイークに撮ったものらしいけど、この場所は、これくらいたくさん人がいてこそ成立するものなのだなあとも感じた。