●制作していて気付いたのだが、ぼくの作品で、ドローイングとペインティングとはネガとポジの関係にあるようなのだ。つまり、ドローイングで描いていない部分(地が残る部分)をペインティングでは描いていて、ペインティングで描いていない部分(形と形のぶつかり合うエッヂの部分)をドローイングでは描いている、らしいのだ。
このように書いてしまうとまるで当たり前のことのようで、そんなことにいまで気付いていなかったのか、とも思えるのだが、でも、これはそんなに当たり前のことではない。これは、制作プロセスの進行方向においてまったく逆のアプローチをしているということだ。つまり。ドローイングで、一本一本の線のその都度の積み重ねによって「結果としてそうなる(そのように残る)」ところをペインティングでは意識的にアプローチしていて、逆に、ペインティングで色や形やタッチのせめぎあいのなかで「結果としてそうなる」ところを、ドローイングでは線としてはじめから意識的に描いてゆく。出来上がった(あるいは、あらかじめ分かっている)結果があって、それを(画像を変換するように)反転するのではなく、探り、つくりあげてゆく、そのプロセス自体が反対(反転形)なのだから、これはもう、空間を裏返すように、頭のなかに演算の過程を完全にひっくり返すということになる。A、B、C…というプロセス・アプローチとZ、Y、X…というプロセス・アプローチ。例えば、右投げの投手が、そのフォームをそっくり鏡像的に反転して左で投げる、というようなことではないだろうか。いや、ちょっと違うか。プロセスが逆ということは、時間が逆行するようなものだから、むしろ、あるフォームを、フィルムを逆回転するようにして再現する、という方に近いのかも。いや、そうではなく、ボールが遠ざかってゆく投手であることと、ボールが近づいてくる打者であることとが、両立するということか。どれも違う気がする…。
要するに、制作する時に意識のあり様やプロセスがまったく違っているので、今までは自分でも、ペインティングとドローイングとがどのように関係しているのかがよく分からなかったのだ。
ぼくは最初、ドローイングがまったく描けなかった。ぼくの作品には「線的な要素」はほぼなかった。それがある時とつぜん「線で描く」ということがしたくなって、線で描く練習をはじめた。九十年代の終わり頃だったと思う。それは(手の技術というより)頭のなかの構造を書き換えることだから、もちろん、そんなに簡単なことではない。最初にドローイングの展覧会をしたのが2006年で、その頃にようやく「線で描ける」という感触をつかんだのだと思う。でもその時も、二つのものは分離したままで共存しているという感じで、ペインティングとドローイングとの関係はよくわかってなかった。そして今ではむしろ、ドローイングの方が制作のメインになっているのだが、しかしだからといって、ドローイングがペインティングにとって代わるということではないようなのだ。
最近、展覧会もあるので、久々に油絵具でペインティングの作品を制作しているのだが、それで今日、ふと、あっ、もしかして、逆から行ってるのかも、と気付いたのだった。意識的に「線」で描きはじめてから十二、三年経って、ようやく気が付いたということは、ようやく、気が付けるところまで来られた、ということなのだろう。
しかし別に、ペインティングとドローイングの制作プロセスがネガ・ポジ関係にあることそのものに意味があるわけではないし、それ自体としては「へーっ」という程度のことでしかない。まったく逆向きの構造化の装置がぼくの頭のなかに出来上がって同時に作動していることそのものが、ぼくにとってはとても面白いのだが、それも、ぼくにとって面白いということに過ぎないだろう。重要な点は、そのような装置が作動することによって、何が捉えられるようになるのか、というところにある。そして今後、この裏・表となる逆向きのアプローチを一つのフレームのなかに共存させるというようなことが可能になるのだろうか(でも、実作者がこういう「言葉」を先行させちゃうと必ず間違う、あくまで、地味な実践とそのなかで働く勘の導きに従ってゆくなかで、何かを発見することを積み重ねるしかない)。