セザンヌに無くてマティスにあるのが「線」という要素で

セザンヌに無くてマティスにあるのが「線」という要素で、というか、「線という要素」という言い方をすると間違いのもとで、それは線だけの問題ではなく、フラットな平面に線が及ぼす作用についての探求と言うべきだろうけれど、一昨年の末のマティス展で多くのドローイングを観て以来、ぼくはずっとそのことについて考えているように思う。前田英樹マティスの線について、人が「こんなに大きなカボチャがあってね」と身振りで示す時の手の動きのようなものだということを書いていて、それはとても納得のゆく重要な指摘だと思うものの、それは主に、タブローに筆で引かれた線や、大きめの紙に木炭のような柔らかくて太い描画材料で引かれた線にはあてはまっても、それ程大きくない紙に、細い線で描かれたドローイングや、太い筆で描かれていても、陰影をつけずに描かれているようなドローイングには、必ずしもあてはまらないように思う。(ここでまたぼくの言い方は正確ではなくて、マティスにおいてボリュームをあらわすようなトーンは決して「陰影」ではないのだった。)紙の上に線だけで描かれたドローイングを構成する要素は、言ってみれば紙の色と線の色というたった二つで、つまり「紙の色」と「線」との違いという、たった一つの差異しかなくて、この二つの要素だけで、この世界にある物の様々な「質」の違いを表現出来てしまうというのは、一体どういうことなのだろうか。たった一つの差異という言い方もまた正確ではなくて、紙の色と線というのは、「0」と「1」というデジタルな差異ではなく、紙の色は物質としての紙というそれ自身で充実した質をもち、線もまた、インクなり墨なりの、それ自身物質としての複雑な質をもつ。しかしまた、そのような物質としての紙の上に、物質である墨で「線」が引かれた時に、その紙の色の広がりに、物質としての紙とは「別の質」が生じてしまうのだ。そこにあらわれる新たな「表現としての質」は、紙という物質の質でもないし、線によって囲まれた「輪郭」が示す、「記号」としての質というわけでもない。それはまさに、それを見る人の感覚のなかにイリュージョンとして「表現の質」としてあらわれた、非物質的で、非現実的な質というべきものだと思う。勿論、絵画がもたらす「質」というのは皆そのようなものなのだが、そのような変質が、画面全体の面積からいえば、ほんの僅かでしかない部分に、たった一色の線が引かれただけで、残りの、全く手のつけられていない、そのまま残されている場所で起こってしまうということが、凄く不思議で、面白くて仕方が無い。ぶっちゃけて言えば、ここで紙の質の変化の具合は、紙の広がりを線によってどのように「切り分ける」かによって決まってくるのだが、紙の広がりを切り分けるのは、決して「輪郭線」ではなく、むしろ、空間を切り分ける(抽象的な)「身振りとしての線」なのだ。(これは前述した前田氏の発言と深く関係するが、その身振りは、必ずしも前田氏の言うように具体的な何かを示すものである必要はないと思う。)ここで問題なのは、紙の広がりという空間全体を、線によって切り分けることによって、どのような流れや動き、どのような疎密の差、どのような表情の違い、どのようなリズムがつくられるのかということであって、決して「輪郭」によって形を投射することにではない。(輪郭に捕われている限り、線はいつまでも記号のままだし、紙の質は、たんに紙の質のままだろう。)マティスのドローイングは、画面の均一な広がりに、線によって抽象的なリズムの配合を与えることで、具象的な「空間のなかの物の状態=関係」を捉えようとしているのだと思う。具象的な形態を描くマティスにとって、リズムを刻む身振りとしての線は同時に輪郭を示す線でもあるのだが、それが決して「輪郭」を問題にしているわけではない、ということが重要なのだ。
●線について本気で考えるようになったのは、本当に一昨年のマティス展を観てからで、それ以前はぼくの作品には基本的に線的な要素というのがほとんど無かった。なんとなく、上に書いたようなことが分かってきたのも最近で、今年に入って、自分である程度納得のいく「線だけのドローイング」が描けるようになってからなのだった。受験生の頃に、このようなことが多少でも掴めていたら、もう少し石膏デッサンも上手く描けていたんだろうけど。
●余計な話だけど、そのような意味では、藤田嗣治の「線」は達者ではあっても、装飾的なものであまり面白くない。さすがに二十年代の作品は充実しているけど、ぼくは画家として、特に戦争画は受け入れられない。ドロドロの、重たくて暗い地をつくった上に、ハイライトの白く細い線で細かい形を描き起こしてゆくという描き方は、センスの悪い美大受験生が「迫力」を出すためにやるようなやり方としか思えない。(戦争画をフジタの最高傑作だなどという人が理解出来ない。)