セザンヌが、サント・ヴィクトワール山を...

セザンヌが、サント・ヴィクトワール山を繰り返し何度も描くことと、マティスが、同一のモデルで何枚もドローイングを描くこととは、かなり違っている。セザンヌが、その都度異なる「同じもの」としてのサント・ヴィクトワール山の絵を何枚も生むことが出来るのは、描かれるモチーフとしての実在するサント・ヴィクトワール山の「同一性」が強く信じられているからだと思う。だからこそ、セザンヌは何度も繰り返し、全力を込めて対象に向き合い、それへと立ち向かうことが出来るのだろう。一筆ごとに時間のズレを含み、ほとんど分裂し破綻しかけて軋んでいるような画面にかろうじて一つの作品としての統一性をもたせられているのも、対象としてのサント・ヴィクトワール山(の実在)への信頼(信仰)によるのだろう。しかしマティスの場合、描けば描くほど対象の同一性を危うくし、対象の「見え(像)」を分裂させてゆくという傾向がある。一人のモデルが、描かれたドローイングの枚数分だけ分裂してしまうかのようにさえ見えもする。(そこから安易に「プロセスとバリエーション」などという展覧会のタイトルが生まれてしまいもする。)見るたびに(正確には「描くたびに」)、その都度あらたに浮上する像が、事物の同一性を揺るがしている。安易にラカンの用語を用いることはためらわれるが、セザンヌにおいては、想像的なものの多数性(分裂)をギリギリのところで制御し、象徴的なもの(同一性)への通路となるものとして、対象(サント・ヴィクトワール山)への信仰があるのに対し、マティスにとってのモデルは、むしろ想像的なものの多数性(分裂、そして豊かさ)をもたらすものとしてあり、それ(モデルの存在)のみでは、作品を「(多数であると同時に)一つのもの」として制御する支えたりえない。しかし勿論、マティスもタブローにおいては(制作プロセスの写真が示すように)、いくつもに分裂された像は、絵の具の層のなかに複数重ねられつつ、最終的には統合されて一枚のタブローとなる。(だから何かしらの形で対象の同一性への信仰はある。)
一筆ごとにズレを生み、亀裂を生じさせるセザンヌの筆致の積み重ねが「(あるイメージ=質をもつ)一つのまとまり」として作品たり得るためには(つまり、それを信じて制作をつづけられるためには)、自然の(存在の)「深さ」への「前もってある信仰」が必要なのだと思うが、マティスにはおそらく、前もって絵が「一つのまとまり(質)」を持ち得るという保証となるものを、セザンヌのようには持っていない。(セザンヌの方がより過激に分裂を生きていたからこそ、強い統合の原理としての対象への「信仰」が必要だった、とも言えるけど。)つまりマティスは、絵が出来上がるか、出来上がらないかは、出来上がってみなければ分からない、というところで絵を描いていた。(しかしそれでもやはり、どこかで「出来上がるはずだ」という予感が信じられていたからこそ描きつづけられたはずなのだが。)