セザンヌは、毎回同じようなやり方で...

セザンヌは、毎回同じようなやり方で、しかし毎回その都度はじめからやり直すように、何度もサント・ヴィクトワール山を描く。それは、どれもまぎれもなくセザンヌのサント・ヴィクトワール山以外の何ものでもないのだが、しかし、一枚一枚それぞれがはっきり違う作品としてたちあがり、「連作」という言葉が安易に連想させるようなシステマティックなバリエーションとはほど遠い。同様に、柴崎友香は、毎回同じような文体で、似たような傾向の人物たちが、似たような雰囲気の場所でうろつき、誰かを気にかけ、飲んだり食ったりする場面を、しかしその都度、新たなものとして新鮮に描写する。同じような題材を、同じようなやり方で、繰り返し描くことが、その都度新たな何かをたちあげることになるはずだという強い確信は、一体何に支えられるのか。それは、新たな題材を探ったり、新たな方法を模索したりするのとはまったく違った「新しいもの」をその都度たちあげる。私が、「私」を意識する度に、私はその都度新たな「私」としてたちあがる。しかしそれは、その前の「私」と実はうんざりする程変わらない。しかしそれでも、同時にそれは、その都度あらわれる新たな私なのだ。毎回その都度たちあがるそれぞれに異なる「同じ」ものの新鮮さこそが、素朴なリアリズムを支える。だからぼくも、ドローイングを何枚も描く。描く度にぼくはその都度繰り返し何度も画家となり、描くこと(描けたこと)によってしか画家になれない。(寝る前に枕元に置いたリンゴは、目が覚めても同じリンゴであるが、その同じリンゴは、見るたびごとにその都度新鮮なものとして結像される。そして、それを見ている「私」もまた、寝る前にリンゴを見た私と同じ私なのだが、起きてから見るリンゴの新鮮さとともに、その都度新たにあらわれる「同じ」私として居るのだった。)