●浅見貴子さんのアーティストトークを聞くために上野の森美術館へ。そしてその前に、もうすぐ終わってしまうセザンヌ展をもう一度観ようと国立新美術館へ。いつもならば、美術館に着くといてもたってもいられずそのまま急ぎ足で展示室に突入するのだが、引っ越しして六本木まで遠くなったので、着いたときにはやや疲れていて、展示を観る前に一休みしようと思って美術館の中というのか前というのか、オープンスペースだかインナースペースだか分からないカフェでコーヒーを飲んで一息つく。美術館で展示を観るより前に一休みするのははじめてだけど、これはこれでこれから絵を観る体勢にするため呼吸を整えるのにいいかもしれないと思った。美術館にやってくる人の流れをぼんやり見ていた。
セザンヌの最晩年の作品を観てしまうと、それより前の作品がどうしてもちょっと物足りなく感じられてしまったりもするのだが、それは逆に考えれば、セザンヌが一生かかっていかにすごいところまで登りつめたのかということであって、後からやってきたぼくは、セザンヌが一生かかって追及してきたことの最後の最後の到達点をいきなり観てしまうことができるわけで、それはなにかインチキというか、ズルをしているような申し訳ないような気持ちになってしまう。とはいえ、大学に入った年にセザンヌの洗礼を受けて以来、もう二十五年ちかくもずっとセザンヌについて考えつづけているわけだから、そう「いきなり」というわけでもないなあとも思う。いや「いきなり」どころか亀の歩みだろ…、という方が正確なところか。
●このセザンヌ展の最後の方の構成は面白い。同じ年に描かれた二枚の「庭師ヴァリエ」がなぜ離して展示されているのかと疑問をもつ人もいるかもしれないけど。しかし、厚塗りの方の「ヴァリエ」が「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」の近くに展示され、薄塗りの方の「ヴァリエ」が「サント・ヴィクトワール」の近くに展示され、そしてその中間辺りに「りんごとオレンジ」があるというのは、晩年へと至るセザンヌの三つの方向性を正確に反映しているように思われる。セザンヌと言えばまず「サント・ヴィクトワール」に結実してゆくような達成が想起されるけど、厚塗りの「ヴァリエ」や「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」ではそれとはやや異なった調子がみられる。いや、おそらく「成分」は同じなのだろうが、その「配合割合」が違うのだと思う(だから三つの「方向性」という言い方は正確ではない)。視線が次々と異なるレベルの循環へのずれ込みに巻き込まれてゆくようなサント・ヴィクトワール系の作品とは違って、それらの人物は重たく漂うような固着状態を示している。しかしその、自分自身へと深く重たく沈殿するような人体(塊り)は、ある距離よりも近づくと内実が消えて空虚のような広がりになってしまう(そのような意味ではサント・ヴィクトワールとのつながりはある)。
この違いは、風景と人物という主題の違いとして中期くらいからずっとあったとも言えるが、前にも書いたけど、1899年頃からようやく「成果」がみられるようになる油絵具の半透明の層の使い方の習得によってより一層違いが(というより「振れ幅」が)大きくなったと思う。一方に、めくるめくように明滅し循環するサント・ヴィクトワール系の作品があり、もう一方に、重たく沈殿する人物画があるとすると、その中間辺りに位置するのが「りんごとオレンジ」のような静物の「時空構造と質料の絡まり合い」のような状態のではないだろうか(つまり両極に二つの「ヴァリエ」があり、その中間に「りんごとオレンジ」がある)。ただ、今回の展示では「水浴図」が(習作的なもの以外は)なかったので、「水浴図」がこの三つのどのあたりに位置するのか、それとも、三つのどれをも等しく含むようなものなのか、それがとても気になる。
そして、薄塗りの「ヴァリエ」がサント・ヴィクトワール系の近傍にあるということは、それまで分離していた風景と人物という二つの系列がここで合流しているとも言えるのではないか。
●おまけ。以下は4月13日の東京新聞に掲載されたセザンヌ展の評です。


セザンヌ展@国立新美術館


セザンヌ展といえば数年に一度は開催される定番だが、本展は質量ともに充実しており、珍しい初期作品から晩年の「セザンヌの神髄」と言える作品まで、一筋縄ではいかない画家の様々な側面を感じることが出来る。
ここでは晩年の作品の、主に色彩について書いてみたい。晩年の作品では、いくつかのタッチが一塊となって出来る色面が基本的な構成要素となる。この基本単位はモチーフから見出されるものというより絵画の秩序の側にある。晩年の絵は、モチーフをこの基本単位の組み合わせへと翻訳することによって成り立つ。例えば基本単位より細かい木の葉が描写されることはない。色彩も、モチーフの固有色が無視されるわけではないが、その再現が目指されるのでもない。土にも空の色が混じり、幹にも葉の色が混じる。これは印象派のように光を追った結果ではない。セザンヌの絵は色面、タッチ、輪郭線、基本色という基本単位の配置によって出来ており、画面全体で起こる単位間の相互干渉、つまり動き、共鳴、リズムが問題となる。セザンヌがモチーフから見出そうとするのは「見た目」の類似ではなく物と物とが干渉し合う関係だ。
セザンヌの色彩の基本は、青と緑と黄土色にあるように思う。それぞれの色は、淡くなったり鮮やかになったり濃くなったりと調子を変化させながらしかるべき位置に配置される。黄土色は土や岩や肌となり鮮やかになって赤や黄に近づき果実となる。緑は植物となり濃くなって影となる。青は空となり山となり、あらゆる物の根底にある深さにもなる。色は画面内を循環し相互に浸透し合う。なかでも青は特別な潜在性を表現するように思われる。例えば庭師ヴァリエの絵で、重たいコートを描く濃紺の絵の具から下の層に塗られた鮮やかな青が滲み出し、茶色がかった顔からも青が見出される時、頑固そうな老人を描いた重厚なその絵なかに、サント=ヴィクトワールを描いた絵と同じ大気が広がるのを感じ、そこに同じ風土によって繋がるものが潜在されているのを感じる。
そう感じると、セザンヌの多くの絵が隠された青に浸され、潜在的な青という裏地で繋がっているかに思えてくる。網膜的にではなく、気配のように漂う青によって。
上野の森美術館で展示されていた浅見さんの作品は、2010年にアーティストインレジデンスで浅見さんが倉敷に滞在していた時に製作された松を描いた絵だった(大原美術館収蔵)。
この作品はおそらくはじめて観るのだと思うけど、大きな点と小さな点との絡まり合いがとても密で、しかし同時に、それが大きくあいた余白の部分と連続性を保ってもいて、だから画面に大きな広がりと張りがあり、密であると同時に軽い、薄い(奥行がない)のに厚みがある、というような稀有な状態を示していると思った。
浅見さんのトークで興味深かったのは、「墨」は、水墨画でも書道でも、一発で決める時にもっとも新鮮で美しい表情をみせるけど、何度も手を入れるとどんどん鈍くなってしまう、でも、浅見さんの作品は紙の「裏」から描いているから(作品の表に見えている墨は、裏から染み出たものだから)、常に墨の最初の新鮮な色が出ていて、「一発目の新鮮さ」と「墨の点や線が層構造をつくること」とが両立出来る、と言っていたところ。つまり、その都度の一発決めの緊張と新鮮さが、重なって層をつくることを可能としている、ということ。
●おまけ2。去年4月のアートフロントギャラリーでの浅見さんの個展のリーフレットに書いたテキスト。


空間が時間を含み、時間が空間を含む


筆で点を置く。もう一つ置く。さらにもう一つ。この時、描かれた三つの点には時間的なズレがある。しかし、既に描かれてしまった三つの点は、同時に目の前にある。ここで三つの点に対峙する者は、すべての点を同時に見るのだろうか。おそらく、答えはイエスであり、ノーでもあろう。既に描かれ、平面上に並置された点は、配置や散らばりとして空間的に把握される。だがそれだけでなく、点はそれぞれが一つずつ置かれたのだという主張を捨てることはない。一つ一つの点にはそれぞれ異なる時間が、点を置くその都度の感触が、そしてその移り行きが宿っている。
浅見貴子の作品を前にして最初に感じるのは、たっぷりと墨を含んだ筆で描かれた無数の点からなるリズムであろう。それは、巨大な太鼓による重く響くリズムが、聞くというより波動として身体に届くのと同様、見るというよりは受け止めるという感覚としてやってくる。ドスンと響く重たい点、あるいは細かく連打される軽い点が、それぞれ時間差を感じさせながらズレたり重なったりしながら広がり、全体として地響きのように重たい、あるいは虫の羽音のように軽やかな振動を生み出す。
だが意外なことに、その複雑な振幅をともなうリズムは、実は空間に起源をもっているらしいのだ。浅見は、最初は特定の実在する樹をスケッチすることから始めると言う。しかもその目的は、主に木の枝の構造を把握するためであるそうだ。木漏れ日を地面に落とす豊かに茂った葉たちが風で揺れる様を想起させもする点の集積は、葉というよりむしろ、枝の延び方や前後関係から導きだされるようなのだ。
まず、樹の形態や構造がしっかりと掴まれ、次に、必ずしもそれに拘束されないやり方で点が置かれてゆく。視覚的、空間的に掴まれた樹は、それに拘束されない点=リズムへと変換されて再把握される。この二つの異なる把握の仕方、その間にある変換と重ね合わせこそが、浅見の作品に独自の厚みを生んでいるのではないだろうか。空間が時間を含み、時間が空間を含み持つかたちであらわれるのだ。
点の集積が、そのリズムが、たんなる白黒反転の視覚的なモアレ効果に留まるのではなく、そこから、樹の佇まいや、樹に射す光の感触、枝を伸ばし葉を茂らせる樹に宿る生育の力までもがたちあがってくる。それは、この二重のプロセスを経ているためであるように思われる。
八重洲ブックセンターに立ち寄ったら、ビオイ=カサーレスの自伝(というか、自伝的エッセイみたいな感じの本)が出ていて、おーっと思った(2010年に出ていた)。おーっと思ったのだけど、本を手に取ってパラパラみているうちに、ぼくは、ビオイ=カサーレスの小説には興味があるけど、実際の人生の出来事には別にそんなに興味がないのだと気づいて、結局その本は書棚に戻してしまった。
(これを書いていて、この文章とまったく同じものを以前この日記で書いたのではないかという感覚が強く湧いてきた。)
●都心まで行って帰って来ると、前に住んでいたところと比べて交通費がだいたい二・五倍くらいかかる。これでバスがない時間に帰ってきてタクシーを使うとなると三倍くらいになってしまう。