ブリジストン美術館にはセザンヌの自画像がある(「サントヴィクトワール山」もあるはずなのだが、どこかに貸し出されているためなのか、なかった)。この絵が目の端にでもチラッと映ると、あっ、セザンヌがいる、と思って緊張する。近付いてゆくと、セザンヌがこっちを見てる、と思ってさらに緊張する。自分は、セザンヌのこの視線に値する存在なのか。この、セザンヌの自画像の前に立って恥ずかしくないことをちゃんとしているのか、と。セザンヌに対する約束をちゃんと実行しようと努力しているのか、と思って、気後れしてしまう。身が引き締まる、とか言えればいいのだが、どこか後ろめたいところがあるのか、気後れする、という感じが強い。
ブリジストン美術館を観ていると、やはり「絵画」という何かがあるのだという思いが強くなる。それはジャンルということとはちょっと違う。それは長いこと受け継がれてきた約束のようなものであり、その約束はある形式をもつ、という感じだろうか(この「約束」とは、グリーンバーグやフリードの言うのとはちょっと違う)。例えば、利部志穂の作品は、おそらく、絵画とか彫刻とかいうものとは切り離されており、それだからこそ面白い。そこには、絵画とか彫刻とかのもつ重力から離脱があり、その離脱の必然性があり、その離脱によってしか捉えられないなにものかがある。つまり、何かとてつもない飛躍があるのだ。ぼくはそれをすごく面白いと思うし、そこにはたんなる目新しさとはちがう、もっと本質的な何かが掴まれているように思う。
しかし、それをとても面白いと、あるいは眩しいと思うのと同時に、ブリジストン美術館を観ていると、自分自身は「絵画」という重力から抜けることは出来ないのかなあ、と思う。それはやはり、何と言うか、小回りが利かないし、古臭いし、何かこう、もどかしいというか、奥歯にモノが挟まっているというか、いろいろままならないというか、重たいものを引き摺りすぎているというか、新鮮さに欠けるというか、直接的ではないというか、そういう感じのものでもある。とはいえ、例えばルオーの作品をみると、この鈍重な感じにしか捉えられないものがあり、実現出来ない、決定的に強いものがあるのだということを思い知らさせれる。あるいは、マティスの赤の感触は、絵画以外では実現不可能な何かを確実に含んでいるように思われる。
ぼくは、ポリアコフという画家がとても好きなのだが(ブリジストン美術館に一点だけ展示されていた)、ポリアコフの作品は、「形式」としては、まあ叙情的抽象と言ってよいものであり、このような作品をつくる画家は、歴史的にみて、世界中にいくらでもいるだろう。それは、歴史的なある時期に、確実にある役割を担った形式ではあるが、今ではすっかり古くなってしまい、ありふれた(制度化された)ものとなってしまった、と言えるようなものだ。しかしポリアコフには、それとは異なる何かがあるのだ。ポリアコフのような作品が百点くらい並んでいて、なかにポリアコフが一点だけあったとして、ぼくはおそらくそれを正確に言い当てることが出来ると思う。それは、多くの偽物のなかから本物を見つけるというようなことではない。そんな、自分の鑑定眼を誇示するようなふるまいは絵画とは何の関係もない下らないことでしかない。つまんない作品ばかりだなあ、と思って、さーっと流して観ていたとしても、自然にそこに目が止まってしまう、嫌でも目についてしまう、という風にその作品に吸い寄せられるのだ。それは、良いとか悪いとか言う前にある「匂い」のようなものとしかいいようのない何かであり、その匂いはポリアコフの作品からだけしか感じられないものだ。そしてそれを可能にするのが、絵画という、古臭くて、ありふれた、繰り返し使われてきた形式なのだ。
古代美術の手前の、近代絵画の最後の部屋の最後の壁に、エミリー・ウングワレー(ウングワリイ)が2点展示してあって、そこにウングワレーがあるなどと思ってもいない状態でその2点が目に入ってきた時、うわーっと、感情が高ぶって、不意をつかれた感じで、もうどうしたらよいのか分からなくなってしまった。いや、本当にウングワレーは素晴らしいと思い知らされた。(対して、ザオ・ウーキーは偽物だと、ぼくには思われる。)
ウングワレーの作品も、形式的にみれば抽象表現主義的な作品で、これもまた、ほとんど死ぬほどありふれた形式だ。「こういう絵」は、ほんとに掃いて捨てるほどある。ヨーロッパの画家なら、「こういう絵」はおそらくパロディとしてしか描けないだろう(そのようなシニシズムが絵画を殺してしまっているのだが、まあ、それにはそれなりの必然性もあるのだが…)。しかし、であるにもかかわらず、ウングワレーの絵は圧倒的に素晴らしいのだ。六本木で個展を観た時には、ヨーロッパのアートマーケットに搾取されたアボリジニの画家であるウングワレーの絵を、素朴に「すばらしい」と言ってしまうことに一定の抵抗があったのだが、日本で最も充実した近代絵画のコレクションをもつブリジストン美術館の展示をずっと観てきて、その最後のところで不意打ちのようにウングワレーの絵に出会うと、そんな「政治的」なことはどうでもよくなって吹き飛んでしまうほどに、その作品のすばらしさの普遍性を確信できるのだった。
しかし、そのすばらしさは、形式的なものでもないし、美術史的なものでもない。これもまたポリアコフの作品と同様に「匂い」としか言いようのない何かなのだ。だから、(このような「匂い」に対して)鼻の効く人にしか分からない(これはなにも、「このような匂い」だけを特権化しているわけではない、このような匂いには鈍感であっても、これとは別の「匂い」には敏感である人もいるだろうし、ぼく自身、あらゆる匂いに敏感だなどとはとうてい言えない)。ポリアコフはロシアの大地の匂いであり、ウングワレーはオーストラリアの大地の匂いだなどと言えば、それはあまりに安易で陳腐な言葉となってしまうのだが(大地という言葉があんまりだというのなら、環境と言い換えてもよいのだが)、それがあながち間違っているとも思えない(この匂いは、主に色彩の「濁り」のなかから立ち上るように思われる)。そしてそれを掬い上げるのが、絵画という、古臭くてありふれた器なのだし、画家という媒介者なのだと思う。