●馬喰町のギャラリーαMで中原浩大展。京橋のツァイト・フォト・サロンで金村修展、ブリジストン美術館で、マティスの時代展、南天子画廊で、岡崎乾二郎(常設)展。銀座のなびす画廊で、利部志穂展(二回目)。
●中原浩大の作品を見るのは随分と久しぶり。展示されているのは、89年に制作され、豊田市美術館に収蔵されているものらしい。
緑色の毛糸で編まれた、植物の茎、蔓、葉、実(豆)のような形態が、まるで蔦が絡まるように床面に敷き詰められ、そこに合板でつくられた、赤と黒に塗り分けられた二つの球体が置かれる。床に敷き詰められた毛糸の形態は、床面全体を絵画と化し、観者は、文字通り、その、決して一望のもとには捉えることの出来ない絵画の内部に入り込み、まるで、観者がその時に見ている「視野全体」を絵画と化するかのようにあらわれる。視線を動かすたび、からだを移動させるたび、その絵画は変化するが、しかし、毛糸で出来た形態は蔦のように一つに繋がっているから、視野を動かすたびに異なる絵画が現れるのではなく、視線は全貌を捉えることの出来ない一つの絵画のなかで彷徨うように彷徨う。太い毛糸で編まれた形態は、一定の厚みを持つし、形のキワがめくれ上がったりもするので、けっしてフラットに平面的なわけではないが、しかし、それは絵画の絵具の盛り上がりのようなもので、むしろそれによって、作品の絵画的、平面的性格を際立たせるように思われる。形態の始点(あるいは終点)が、床から離れ、柱のやや高い位置に留められているが、そのこともまた、立体的、三次元的空間を出現させるというよりも、三次元の空間を、三次元のまま絵画化、平面化する、という効果となっているように思われた。
空間全体に増殖し、床面を覆い尽くす蔦のような緑色の毛糸の形態は、三次元空間を、三次元であるままに絵画化するのだが、そこに唐突ともいえる感じで、二つの赤と黒に塗り分けられた球体が目に入ってくる。ミニマリズムの絵画平面が歪んで球形になったような、この、絵画的であると同時にあまりにモロに「立体的」である二つの球体が、絵画化、平面化される空間に、別の位相をつけ加え、それによって空間全体にねじれが加えられ、作品の裂け目となると同時に、作品全体を活性化させる。三次元の空間が三次元のまま絵画化されるならば、画廊空間そのものが絵画となり、その「外」の視点が得られなくなる。この二つの球は、そのような絵画的空間の内側に暴力的ともいえる感触でねじ込まれてくる歪みであり、立体的な空間性であり、盲点ですらあり、作品を破綻させるようにしてその「外」を開き、その開かれた外との関係(外からやってくる、観者とは別の視点?、球体は種のようでもあるのと同時に目玉のようでもある)によって、逆説的に作品は自らの位置を得ることが可能になり、閉じられ、自らを完結させるかのように見える。二つの球は、作品空間の内部に歪みをねじ込み、作品の外を開くと同時に、その開くという効果によって作品を閉じ、作品を完成させるかのようだ。この、切断であり、飛躍でもある「何か」によって作品は成り立つ。
ものすごく面白い作品だと思う。ぼくは、中原浩大は八十年代終わりから九十年代初めにかけての、日本現代美術のもっとも重要な作家だと思う。この作家は、戦後(から地続きの)の現代美術に、ひとつの決定的な裂け目をつくったと思う。まるで、この作品のふたつの球体のように。良くも悪くも、戦後の美術は、中原以前と以後とに分かれる、とさえ言ってもよいのではないか。最近のこの作家がどんな作品をつくっているのかは知らないのだが、この時期のこの作家の作品を、是非もっと沢山魅せてほしいと思う。とても面白い、魅力的だ、と思う反面、本当にこれで良いのか、何か決定的に重要なものから「離れて」しまったのではないか、という、ある種の反発も同時にあり、どちらの意味でも、とても刺激的な作家だと思う(昔、九十年代のはじめに、青山にあった東高現代美術館で観た、巨大な「海の絵」など、是非是非、もう一度観てみたいと思うのだ)。そこには何かとても重要なものが刻まれている気がする。
金村修の写真は、東京を撮っても、ニューヨークを撮っても、北京を撮っても、ほとんど同じなのだが、そこに露呈される、恐ろしいほどの(意味を寄せ付けないほどの)視覚の平等性にたじろぐ。我々が本当に「見ている」のは、このような像なのだ、ということが恐ろしい。南天子画廊では、最近の岡崎乾二郎の作品のなかでも特に際立ってすばらしかった2005年の個展の時の作品が2点観られて、とてもよかった。特に、150号と30号との2点一組の作品が面白いとぼくは思う。利部志穂の作品について、最初に観た時にいろいろ書いた(5月11日)が、その時の見方(そして記述)がいかに粗かったかということを、あらためてじっくりと観て思い知らされた。細部と細部との結びつきが、最初に観て感じたのよりも、ずっとずっとデリケートでかつ緊密であった。つまり、一度目に観た時よりも、さらに面白く感じられた。
●今日見たものすべてが面白かった。ブリジストン美術館については、改めて書くつもり。