●絵画の平面性というのは抽象的な場所にあるものだと思う。キャンバスは厚みのある物質だし、横から見ればそのような側面は明らかになる。しかし絵画は、完璧に正面から見られなくても、多少、斜めから見られたとしても、見上げられたり見下げられたりしても、平面として頭のなかで補正されて、捉えられる。絵画の平面性、絵画というものがあらわれる場としての平面は、だから、支持体の平面性に依るのではない。おそらく、絵画を絵画とする平面性は、人の頭のなかにある。表面がでこぼこと波打っていたり、絵の具が手前へと盛り上がっていたとしても、それは絵画の平面性と相反することはない。
●それはつまり、絵画の生み出す空間のイリュージョンが、キャンバスの厚みや絵の具の盛り上がり、あるいは、表面の波打ちといった三次元的な空間性とは、もともと別のものであるということだ。描かれたものとしての「絵画」は、それを物質的に支える支持体とは(あるいは物質としての絵の具そのものとは)別の次元に成立する。つまり分離している。
切り込みがあり、環状に繋がっている段ボール箱は、あきらかに段ボール箱であり、それを組み立てるという行為や、組み立てられた箱の状態を常に意識させるだろう。だけど、その物質としての特性や用途への連想(その手触り)と、「その上」に描かれたもの-絵画は分離している。「その上に描かれた絵」と「段ボール箱のもつ物質あるいは記憶の手触り」は、それを見た人の頭のなかでは、おそらく「別の場所」に収納される、あるいは、別の場所に発生する。
●とはいえ、現実的にはそれらは同じ場所にある。というか、絵画は、「何かの上」に描かれなければ存在できない。例えば「段ボール箱」という特定の具体的な場所を得ることで、絵画はその都度あらわれる。段ボール箱の形状や柔らかさ、途中にある切り込みは、白くてピンと張られたキャンバスの上で同じクレヨンを動かす時とはまったく異なった感触を、それを描く者に与え、異なった動きや線や形態を引き出すことなにろう。だらしなくだらっとぶら下がった段ボール箱は、それを見る者に対し、作品を受け入れる時の基底的な体勢や気分に、あらかじめある特定の方向づけを行うことになろう。それは決定的なものであり、その次元を軽く見るならば、作品の感触を正確に捉えることはできなくなる。
●だとしても、物質と作品とは決して一致しない。まあ、これは当然過ぎるほど当然の単なる事実でしかないとも言えるのだが。というか、ぼくが言いたいのは、通常、それがピタッと一致しているかのように見える状態が「完成度の高い作品」ということになっているのだが、別にそこをことさら目指す必要はないんじゃないか、ということなのだ。そこは、あからさまにすれ違っていていいんじゃないか、と。すれ違っていたり、ズレていたりしても、そこに「絵画」はちゃんと成り立ち得るんじゃないか、と。いやむしろ、すれ違うところでしか立ち上がらないのではないか、と。
(別に、「段ボール箱」であることにことさら意味なんかない。今後も段ボールに描くかどうかは分からない。たまたま、キャンバスもパネルも買えない時に、目の前に段ボール箱があったから、「まあ、これでもいいじゃん」と思って、そこに描いただけ。実際、それで十分にいけたと思う。というより、それでしか開かれなかった何かがあったと思う。それで十分に絵画は成り立つ、というか、(決して「あえて」とか「意図的に」とかではない)その都度の「別にこれでもいいじゃん」というところ(具体的な感触のもと)でしか、絵画は立ち上がらないんじゃないかと思う。)
(同様のことだと思うけど、最近、油絵の具で描くことを再開しているのだが、これもまた物質的な基底というか条件に左右されることで、つまり、油絵の具が買えなくなったら、中断せざるを得なくなる。油絵の具でなければ実現できないことは確実にあるが、油絵の具がなければ絵が描けないというのではやっていけない。それはむしろ「絵画」から離れてゆく認識だろう。そういうことのなかで「絵画」をやってゆくしかない。)