●神楽坂のアユミギャラリーで、はい(草冠に「配」)島伸彦展「MATRIX 1988-2008」(http://www.ayumi-g.com/ex09/0917.html)。作家の名前も知っていたし、雑誌などで作品図版も観ていたのだが、実際に観たのは実ははじめて。絵画は「実物」を観ないと何も分からないのだなあ、と、改めて思った。印刷図版で観て、だいたいこんな感じの作品なのだろうと思っていたのと、随分と印象が違った。
主に、動物のシルエットが、マットな色面によって画面に配置される。それはおそらく、型か版によってキャンバスに転写されたものだと思われ、同一の形態が(時に反転され)反復されてもいる。しかしそれは、このような説明によってすぐに思い出される、例えばクロード・ヴィアラのような、どこかから、文脈から切り離されて取り出された任意の形態が、キャンバスという平面の上で改めて配置し直される、というような作品とは異なる(まったく異なるわけではないとしても、少なくとも「それだけ」ではない)。
一つ一つの形態-シルエットは、それ自体として練り込まれていて、しかもそれが「動物」であることに、たんに任意に選択された形態という以上の意味が与えられている。高度に練り込まれた動物の形態は、ベタッとマットに塗り込まれていても、それ自体で、ある動きと佇まいとをつよく喚起し、その動き(の予感)と佇まいが、それを観る者に、ある厚みをもった空間の感覚を発生させる。印刷図版で観る限りでは、形態はあくまで「借りてきたもの」であることがそのベタッとマットな平面性とハードなエッジによって強調された、ポップと言ってよいような作品に思えたのだが、実はそうではなく、これらの作品が喚起するは、その練り込まれ、絞り込まれた形態の精度によってあらわれる、きわめてオーソドックスで、クラシックとさえ言えるような絵画空間なのだ。絵具とキャンバスのマットな質感は、ポップな感触というよりもむしろ、古典的なフレスコ画を思わせる質感をもっている(この傾向は、古い作品よりも、新しい作品になるに従って、より明確になってくるように思われる)。
それにしても、動物の形態というのは、ただそのシルエットだけでも、と言うか、シルエットだからこそ一層にと言うべきなのだが、なんと、多くのことを表現しているのだろうか。そのシルエットは、その動物自身の動きや佇まいだけではなく、その動物が含まれる周囲の空間の気配をも含んでいる。というか、画家は、そのような多くのものを含んだ形態を粘り強く探り、注意深く切り出してくるのだろう。この形態の精度こそが、印刷図版では伝わりにくい、しかし作品の最も重要な核となる部分なのだと思われる。この、動物のシルエットそれ自体の持つ豊かな表現性を、ぼくは、今日、この作家の作品を実際に観るまで知らなかった。つまり、この展覧会の作品によってシルエットの表現性を発見した。絵画が「平面」であることの意味を、改めて認識し直した、というのか。そしてこのシルエットが、人体ではなく、動物である必要がある、という事実もとても面白い。それは、人間と動物とでは、その身体が含み持つ空間性、身体と周囲の空間と関係性が、かなり異なるということだと思われる。あるいは、人間の身体のもつバランスや形態は複雑過ぎて、マットな表現性や絵画のフレームとの相性があまり良くない、のだろうか。
そして、そのようなそれ自体として豊かな動きや空間を含んだシルエットが、キャンバスの平面の上で、改めて配置される。そこで、一つ一つの形態が相互作用を起こし、さらに複雑な空間が生まれる。動物のシルエットがそれ自身としてもっている空間性を表現の要素としながらも、複数のそれがフレームのなかで改めて組み立てられることではじめて発生する、絵画独自の空間であるだろう。真っ白なキャンバスの上に、いくつかの黒いシルエットが配置される。キャンバスの白によって切り離された複数の黒い形態を関係づけるための「目安」や「基準」のようなものは、キャンバスには何も描き込まれていない。にもかかわらず、そこには空間の相互作用が(観る者の頭のなかで)生まれる。このような作品を観ると、空間が、遠近法や明暗法(という象徴形式)によってはじめて表象される、という話が嘘であることが分かる。
マットな形態-シルエットが含み持つ豊かな空間性、黒と白というモノクロームが含み持つ豊かな色彩感、おそらく、それが「絵画」というメディアを可能にしている、ということを感じさせる作品。