●新しいのを買ったから、使うならあげるよ、と、古いICレコーダーをもらった。そういえば、はじめてパソコンを手にしたのも、こういう形でだった。パソコンをはじめて触ってから一ヶ月か二ヶ月くらいで、もう偽日記をはじめていた。とはいえ、もらったICレコーダーはWindowsにのみ対応する機種なので、ぼくの持っているパソコンとは接続できず、使い方が広がるとは思えないが。
早速、電車のなかで、一駅分の音を録音して、次の駅まで進む車内で再生してみた。予想以上にクリアに録れていて、しかし、イヤホンは外からの音を完全には遮断しないので、リアルな車内の音も再生された音と重なって聴こえていて、今、聴こえている乗客の声、車内のアナウンス、電車と擦れ違う音、等々が、再生されたものなのか、リアルなものなのかが判然としないまま混じって、前の駅名と次の駅名とが少しズレてアナウンスされ、駅に着いてないのにドアが開くプシューッという音がして、向かいの席の子供の叫び声が、叫んでないのに聴こえたりする。
茶店に入り、本を読みながら、十分くらい音を録って、その音を聴きながら、また本の続きを読む。喫茶店のなかは電車の車内よりもかなり静かなので、主に聴こえるのは録音した音だ。ナマで耳で聞くよりも、一つ一つの音がクリアに聴こえる。自動ドアの開く音がして、店員が「いらっしゃいませ」と言うので、なんとなく入口に目をやっても誰もいない。ああ、録音された音だったのだと気づく。しばらく本を読んでいると、また、そのことを忘れていて、目の前でガタッという音がして、「お冷や、お取りかえします」と声が頭の上から降ってきたので、「あっ、すいません」と顔を上げると、そこには誰もいない。勿論、録音された音だが、今、幽霊を経験した、と思った。
商店街を通って駅まで行って、駅のエスカレーターを上り、改札を入って、ホームに降り、電車が来て、それに乗り込むまでを録音して、自宅の最寄りの駅に着いて、駅からアパートまで歩く間、その音を再生していた。居ない人の足音やざわめきが響き、そこにはない店からのBGMが流れてくる。チリチリチリチリと、自転車のタイアが地面を擦る音が近付いてきたので、反射的に道の隅へと避けるが、自転車は追い越してはゆかない。ああ、幽霊だ。
部屋に戻って、録音した音を改めて聴く。部屋のなかは外よりずっと静かなので、音の一つ一つがはっきりと聴こえる。実際に外にいる時より、音だけ聴いている方が、意識がずっと遠くまで広がる感じだ。以前、よく、ビデオカメラを持って、まわしっぱなしにして散歩したりしていたのだが、音の方が映像よりも遠心的で、フレームがゆるいので、こっちの方が面白いかも、と思う。たんに、新鮮なだけかも知れないが。工事中の陸橋を通った時に録られた、鉄板で出来た仮の床面を、ツッカケを引き摺るように歩いていたおっさんの足音が、カンカンカンと、内部が空洞の金属を叩くよく響く音と、その表面を擦るズリッズリッという摩擦音とが微妙にブレンドされていて、とても面白く、聴き惚れてしまう。外で音を録る時の問題は、マイクに風が当たってしまうときのボゥゥゥゥゥーッというノイズをどうするか、だろう。
面白い、というより、気持ちいい、という感じでずっと聴いていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。今日も夕日を見にいこうと思っていたのだが、目覚めたらもう暮れていた。もう一度喫茶店へいって、閉店時間まで本を読んだ。