●台形を逆さにしたような形の赤い箱の上に、黄色いMがのっかっている巨大なドライブスルーの看板が、そのファストフード店とボウリング場がテナントとして入っているビルの屋上でくるくる回転している。ピッポピッポピッポと聴こえる、信号の歩行者側が青になったことを知らせる音。青いひろがりに、半透明な白い雲が薄く均一に被せられている空から、飛行機が飛ぶ轟音が降ってくるのだが、その姿は見えない。道路の向こう側にあるファミレスの、モーニングサービス実施中と白抜きの文字で書かれた真っ青な四本ののぼりが、強い風ではちきれそうにはためいている。信号待ちの大型バスのエンジンの振動が、トットトットトットッと聴こえる。このバスは、緩やかにカーブしてその先が見えない坂道から下りてきたはずだ。排気ガスのにおい。横断歩道を渡る。
●「夕日」「夕焼け」をモチーフに絵を描いてください、と言われたので、夕日を見に出かけた。沢山の牛がいて、羊も放牧されている牧場と、大きな敷地をもつ少年院とに挟まれた、高台の一番高くなったところで、しかもまわりは畑しかないから、遠くまで見渡せる。散歩の途中によく通る、富士山の見える場所。自分からは決して思いつかず、しようとも思わないことが、他人からもたらされたら、実際にするかしないか(出来るのか)はともかく、一度は、真剣に考えてみた方がいいと思う(でもやっぱり、出来ないものは出来ないのだが)。それにしても、夕日を描くなんて、なんととてつもないことかと思って途方に暮れる。印象派モドキとか、ロスコの出来損ないみたいな絵なんか描いたりしたら最悪だ。最近、絵画は決して「光」を描くものではない、と、つくづく思う。光を描くのではなく、それ自体として光を発するのだ。あるいは、光を内包する。印象派が不正確に見えるのは、光と色とを混同しているからだ(モネの面白さは、そのとてつもない混濁にこそあるのだが)。セザンヌマティスも夕日は描かない。夕日を描けた画家といって思い出せるのは、ルオーくらいしかいない。ルオーも、決して光を追いかけない。
●神宮前に新しくオープンするVACANT(http://www.n0idea.com/vacant/menu.html)というスペースで、5月3日に「sygyzy」(捩子ぴじん×神村恵×福留麻里)が再演されるみたいだ(http://www.n0idea.com/vacant/event/entori/2009/5/6_Opening_Event_files/flyer_back.png)。とはいえ、オープニングイベントの一環みたいな感じで、他に5組も出る。そういう賑やかな(盛りだくさんな)イベントとしてではなく、単体で、それだけで観たい、それだけで観るべき、というような作品だと思うのだが。