●仕事が手から離れたので、さあ、電車に乗りに行こう、というはずだったのだが、昨日、一昨日とハードに、すごくたくさんの文字を手描きでボールペンで書いたせいで、あとそれと目の疲れも重なって、ひどい肩凝りと頭痛で、夜、一睡も出来なくて、こんなどんよりした頭で電車に乗っても駄目だと思い、朝、薬局が開く時間を待って、バファリンを買って、飲んで、午前中いっぱいくらいはおとなしく横になっていることにする。薬が効いて、頭と肩の痛みがやわらぐと、自然と眠ることができた。
●最近、すっかり鳥に夢中で、ツタヤにある「THE LIFE OF BIRDS」というBBCがつくったドキャメンタリーのシリーズをつづけて観ている。オーストラリアに生息するコトドリという鳥は、二十種類以上の他の鳥の鳴き声をマネするだけでなく、カメラのシャッター音とか、サイレン、森で木を切るチェーンソーの音などまでマネをする(チェーンソーの音とかすごく上手い)。これは求愛の行為で、つまり自分の存在をアピールしているわけだが、その時、相手が反応するある特定の周波数の音を出すのでもなく、森で普段は聴こえてこないような特異な音で際立とうとするのでもなく、普段、森のなかで聴こえて来るようなありふれた音(カメラのシャッター音、サイレン、チェーンソーの音などは自然音ではないが、森のなかで普通に聴こえる音だからこそ、この鳥が憶えたのだろう)を出すというところが面白い。つまり、鳥においてもう既に、何かのマネをする(反復する)という行為に表現的な意味があるということなのだ。つまり、ただ目立てば良いということではなく、環境に対する関係性の操作の複雑さそのものが、表現となり、自身のアピールにも成り得るということなのだ。素材(音)そのものはありふれているが、それをどこまで巧みにマネできるのか、そして、その使用可能な素材をいかに複雑に組み合わせ、複雑な唄を組織化することが出来るのか、という、「技術」そのものが表現としての価値をもつ。ワライカセミの鳴き声とカメラのシャッター音という、それ自体としてはどちらもありふれた素材を組み合わせることで、環境のなかでその音がもともと持っていた意味の文脈から「その音」を切り離して、まったく別の表現的な意味をつくりだす。そしてその「別の表現的な意味(技術)」のあり様こそが、自分自身という存在の表出でもある求愛という効果をもつ(補食の行為と求愛の行為とでは、かなり意味が異なる気がする、求愛の行為においてはじめて、自己の環境に対する関係とは別の次元で、自己の他の個体に対する関係が、つまり「表現性」が問題となる)。そんな、(動物化された?)人間のやっていること以上に複雑なことを、なぜあんなに小ちゃい脳しか持たない鳥が出来てしまうのかというと、たぶん、考えないでやってるからじゃないだろうか。
●『ジーザス・サン』の後半は、前半ほどは面白くなかった。だんだんと「思わせぶりな雰囲気」が強くなってきて、それが小説の機敏な運動性を圧制してゆくように感じられてきた。だんだん「笑えなく」なってくるし。それと、最後の二つの章が、小説全体を「説明する」ような書かれ方をしているのにも、かなり引いてしまった。うわー、文学だなあ、という感じ。特に最後の章は、まるで村上春樹みたいでぼくには耐え難く、けっこういい加減に読み飛ばしてしまった。作家に、こういう最終章を書かせてしまうのが、おそらく文学という制度の悪しき力なのだと思う(こういう終り方をしないと納得しないという人がたくさんいる、というか、そういう人こそが多数派なのだ、ということは、勿論ぼくだって知っているけど)。いや、全体としてみればかなり好きな小説なのだけど…。
起こされたなにかしらのアクションには、現実的には、それを引き受けるための着地点が必要だということは不可避のことかもしれない。でも、その着地点によっては、その行為のそもそもの意味の多くが台無しになってしまう。このことは、最近、若い人の書いた小説をかなり多く読む機会があった時にもすごく感じた。はじめのうちは面白くても、終盤にさしかかると、まるで排水口に水が吸い寄せられて行くかのように、「分かり易い落としどころ」に吸い寄せられてしまう。意味というのはどうしても、事後的、遡行的に確定されるという性格をもつのだから、それはほんとにまずいのだ。「もうちょっと、自分の書いた小説の面白さ(可能性)にちゃんと気づいてよ!」と思い、「そこで踏みとどまって、そこからもう一歩突き抜けられるかどうかが問題なのに!」と、何度も思った。勿論、この言葉はそのまま自分自身に跳ね返って来る。というか、誰に対してよりも、自分に対して、この言葉を繰り返し言ってやらないと駄目なのだ。自分が、いかに詰めの甘い奴かということは、嫌というほど思い知らされているので。