南天子画廊の岡崎乾二郎

●初台のICCで、ローリー・アンダーソン「時間の記録」展、京橋の南天子画廊で、岡崎乾二郎・展、銀座のなびす画廊で、日置英子・展、その他、いくつか。
南天子画廊(http://www.nantenshi.com/)の岡崎乾二郎の(大型の)作品2点は、最近の岡崎氏の仕事のなかでも特に良い作品だと思われる。(作品のナンバーが、1-1、1-2、2-1、2-2、となっていることから、大型の作品と小型の作品とで二点一組になっているということなのだろうれど、それをことさら気にする必要もないと思う。)岡崎氏の絵画は、綿布が張られたパネルに、独自の質をもったアクリル絵の具のストロークが置かれる。ここで、支持体として綿布が選ばれていることの意味は大きい。例えば、白い地塗りがほどこされた麻のキャンバスであれば、その地の白は既に「塗られたもの」であり、白が強く視線を撥ね返し、そして物質感としても強く感じられる。しかし綿布は、地塗りなしでもあらかじめ白く、そしてそのややクリーム色がかった白は、白く「塗られた」白よりも眼にやさしく、視線を撥ね返すというよりも浸透させ、そして、麻よりも繊維が細いので、織り目も細かく、物質感としても絵の具よりも前には出てこない。岡崎氏の絵画の特徴として、フレームよりも、個々のストロークがつくりだす形態というか、絵の具の塊の単位の方がやや強く出てくるという感じがある。岡崎氏の(成功した)作品においては、フレームというものの存在がそれ程は気にならない。これは絵画においては驚くべきことだ。そしてそのことと、綿布が支持体として選ばれていることとは密接に関連しているようにみえる。フレームが関係ないというのではない。ストロークがつくりだす絵の具の塊の一つの単位は、ある領域(つまりフレーム)のなかで配置され、その疎密のリズム、色彩や質感の配置が作り出すリズムが、それぞれの作品の表情を決定していることは間違いない。しかし、個々のストロークは、決して、事前に与えられたものとしての「フレーム」との関係で置かれているのではなく、ストロークによる絵の具の塊の単位があらかじめスレームの外に存在していて(つまり、ストロークによってかたちづくられる一つの単位がフレームから独立していて)、その絵の具の塊の単位が、それ以外の別の絵の具の塊の単位(あるいは余白)と関係づけられ、その関係が徐々に煮詰められ複雑化し緊密になってゆくのと同時に、徐々に特定の広がりとしてのフレームが浮かび上がってきて決定されたかのように見えるのだ。例えば彫刻(というか、立体作品)であるなら、個々のパーツが予め用意され、それが組み合わされるにしたがって空間が広がってゆき、あるいは、パーツが取り外されることによって空間が縮小してゆく、というような伸縮が可能だが、絵画においては、実際には描く前に(個々のパーツが生成される前に)フレームがある特定の広がりとして決定されてしまっている。(一望できるものとしての特定の「キャンバスの大きさ」が目の前にある。)現実的には、画家は、既に決定されてしまっているフレームの範囲内でしか、ストロークを置いてゆくことが出来ないのだが、にも関わらず、岡崎氏の絵画は、まるでパーツを付け足したり、取り除いたりすることで空間を伸縮させながら制作される立体作品のような感じでつくられているかようにみえるのだ。(しかし、やはり小型の作品においては、「領域」が狭いので、なかなかそう上手くはゆかないのだが。)事後的に、つまり既に出来上がってしまっている岡崎氏の作品を「観る」しかない我々観者にとって、その作品のフレームは事前に所与のもとのとして(一望のもとに)存在するのではなくて、それぞれのストロークを眼で追い、それを関連づけつつ動いてゆく、視線の動きの果てるところとして、その都度の視線の動きのなかにしか存在しない。多少なりとも「絵」を観ることに馴れた観者であるなら、一旦、全体を観て、そのバランスを確保しつつ、個々の細部に眼を向けることも出来るはずなのだが、岡崎氏の作品では、個々のストロークを追って、それを関連づけてゆく視線の動きによって、全体のバランスが、その都度ぐらぐらっと動いてしまうのを感じるのだ。つまり、全体のバランスとか、「構図」とかいうものを問題にすることが出来ないような作品だと言える。
●岡崎氏の作品を観ていて驚くことの一つに、その、描かれていない部分の「形態」に対する神経の行き渡り方がある。ある「地」のうえに、ある形態を描くと、その形態の反作用として、描かれていない部分、地として残された部分にも「形態」が産まれる。ポジティブな形態に対するネガティブな形態。例えば、人の横顔にも見えるし壷にも見えるというおなじみの図像があるが、それで、人の顔が「見えている」時の、壷の形態が、ネガティブな形態だ。人の眼は、横顔と壷とを「同時」に見ることは出来ないから、横顔を見ている時、壷の形態は見えてはいない。しかしその、見えてはいない形態(壷)こそが、「空虚=ブランク」として見えている形態(横顔)を支えているのだ。岡崎氏の絵画では、絵の具によるストロークが置かれている部分が形作る形態と同等か、あるいはそれ以上に、それによって「残される」余白の部分の形態に気が使われていることに注目されたい。それは、余白などという曖昧な言い方では適当でないくらいに、厳密に制御されている。例えば、今回展示されている作品に目立ってみられる「十字型」の形態は、その形態そのものよりもむしろ、それによってかたちづくられるネガティブな形態の方こそが重要だとさえ言える。そしてそのネガティブな形態は、岡崎氏の絵画においては、綿布の白い部分であることによって、「質感」としてさえ前に出ることはない。しかしその、ネガティブな形態が、そして、その部分の、綿布の決して強く前に出ないないおだやかな白の領域が、岡崎氏の絵画作品の、絵の具の質や色の(美味しそう、とも感じられる)ポジティブな部分の多様な表情を支えているのだ。