現代の具象絵画は、「物」ではなくて「イメージ」を描いている...

●現代の具象絵画は、「物」ではなくて「イメージ」を描いている。それは、リヒターでも、タイマンスでも、パゼリッツでも、奈良美智でも、基本的にかわらない。ここで言うイメージとは、視覚的なものに一元的に還元されたものというような意味で、ビジュアル的、映像的な図像というような意味だ。見ることは本来、そこに「見えた物」が実在していることを「信じさせる」に足りる強さをもつ。しかしここで言う「イメージ」とは、とりあえず「実在」を信じることと切り離された「見えるもの」、いわば、外的対象との関係を失い純粋に「効果」となった「見えるもの」のこととする。(「萌え」を誘発するという「効果」のある「萌え要素=イメージ」みたいなもの。)現代絵画がイメージを描く、という時、それはつまり、「イメージ」への偏愛、「イメージ」を扱う手つき、「イメージ」をめぐる政治、「イメージ」に対する距離の取り方、等が、作品として示されている、ということだ。(このことはやはり写真の登場と切り離せないだろう。写真そのものの示すイメージは未だ実在=撮影対象との繋がりを持つが、写真を「見て」描かれた「絵」が示す「イメージ」はもはや、実在するのもとの関係がほとんどなくなってしまう。)
●対して、モダニズムの絵画にとって問題なのはやはり実在する物であろう。それは描画対象としての物の実在であるだけでなく、それを表象するための舞台となるキャンバスや絵の具の実在でもある。(さらには、それを描く画家の、身体や脳の組成という実在でもある。)例えば、授業中に退屈した学生が、ノートの隅に鉛筆で教師の似顔絵を描いた時、それはたんに教師の似姿という意味で実在する教師と関係しているだけではなく、ノートの隅に書かれたことは、それが描かれたのが授業中であるという現実的な条件と関係しているし、さらにそれを描いた学生の、その時の退屈や教師への感情(あるいはさらに、今このような授業を受けている自分自身の将来に対する漠然とした感情とか)といった気分とも関係している。周囲から切り離された1枚のタブローとして美術館に展示されている作品は、ノートに描かれた似顔絵のように、それが描かれた状況を明示しはしないが(それがまさに「ある状況のなか」で描かれたというナマな感触はないが)、しかしそれが切り離され閉じていることによって、それが描かれた時の様々な現実的に実在するものたちの織りなしていた諸関係(環境)を、その閉じられたなかに(作品を構成する様々な物質の諸関係として)持ち運び可能なものとして保存している。その絵を観る者は、それが描かれた時の状況を、分析的に解析するわけではないし、そんなことは出来ないのだが、その作品を産んだ現実的な諸関係の複雑さが、その作品そのものを成立させている組成の複雑さとして実現されている時(つまりそれが「良い作品」である時)、具体的にこうだと説明することの出来ないある「複雑さの感触」として、その作品と実在との関係を「感じる」ことが出来るはずだと思う。つまり重要なのは、(眼に見える)イメージそのものではなく、(眼に見えない)イメージの形式でもなく(イメージや形式はたんに結果としてある)、そこにイメージとして実現されているものの組成の複雑さであり、その複雑さが実在するものと繋がっているのを「感じ取る」ことが出来る、ということなのだと思う。