川村記念美術館のゲルハルト・リヒター展(3)

(もうちょっと、リヒター)
●人が、身体的なものから切り離された、機械的、自動的なシステムの作動に惹かれるとき、そこには「非人間的(非感覚的)なものへのあこがれ」というような、人間的な情動が働いているのだし、そのような情動を支える基底的なものとして、その人を浸している「気分」のようなものが(その人の周囲の場所に)存在する。また、人が、空虚なものに惹かれるときも、その何も無さと響き合うような「何か」としての感情があって、それが「空虚さ」によって表現されているということだろう。だから「空虚」と言ってもその空虚には密度の差があり、つまり、ある(密度ある)空虚には魅了されるが、別の(文字通りスカスカな)空虚には退屈する。
●リヒターの展覧会に、割合小さな正方形の作品が6点並んでいる一画があった。3点のアブストラクト・ペインティングに挟まれるようにして、風景、静物(花)、人物(自画像)が展示されていた。制作された年代も、題材や技法も異なるこの6点に共通するのは、正方形のキャンバスに描かれていること、ほぼ同じくらいのサイズであること、くらいだろう。そして驚くのは、にも関わらず、この6点がほとんど「同じ手つき」でつくられているようにしか見えない、ということだ。ここで言う手つきとはつまり、イメージを扱う(イメージをつくり、構成し、提示する)「手つき」のことだ。(勿論、だからこそこの6点を同一の壁に並べて展示するという、展示方法が「あり得た」わけだが。)リヒターは「すべてが仮象である」と考え、それを実践している、とよく言われるのだが、それは当たり前のことで、例えば描かれた花が仮象=表象でしかないのと同様、キャンバスの上の絵の具の「物質感(物質性)」もまた、(物質感という)仮象=イメージでしかない。問題なのは、それが「仮象でしかない」という事実をたんに示すというところにはなくて、仮像でしかないイメージをどう扱い、どう組み立てて、どう提示すれば、リアルな「何か」を立ち上げることが出来るのか、ということだろう。(勿論、その「リアルな何か」だって仮象に過ぎない、と言ってもいいわけだが、問題は、そのように「言う」ことによって「何を言おうと(どんな感覚を立ち上げようと)しているのか」というところにしかないだろう。)リヒターの6点並んだ作品は、描かれた花も、絵の具の痕跡も、同等に仮象(イメージ)である、ということは見事に示しているが、そこまででしかないのだ。逆に言えば、描かれた花も絵の具の痕跡も同等に仮象でしかないことが「分かりやすく」見えてくるくらいに、リヒターのイメージの「扱い方」はどれも皆同じように単調で、軽いのだ。ここで「軽い」ということの意味は、そのイメージに対する身体的なものの関与の度合いが極めて浅くて希薄だ、という意味だ。だからぼくには、リヒターの絵は絵には見えず、たんに自分にとって取り扱い可能なイメージの(カラーチャートのような)一覧表にしか思えないのだが。
●確かリヒターは、初期のフォト・ペインティングについて、写真を描き写すことで絵画は完全に抽象的になる、というような発言をしていたはずだ。つまりそれは、写真のモノクロの濃淡のみを機械的に描き写すことで、描画される対象=イメージと、それを描く行為(や画家の感覚)とか完全に切り離される、ということだろう。そのことによってイメージのみが幽霊のように浮遊し、画家の感覚からもメディウムの束縛からも切り離されて、写真から絵画へと転写=翻訳される、と。
●フォト・ペインティングをみれば、その、イメージの選ばれ方(消費社会を象徴するような図像に、死の予感のようなものを重ねあわせている)からみても、明らかにポップ・アートで、しかし、例えばウォーホルなどが、ざっくりと、シルクスクリーンの写真製版を使って機械的にイメージを転写し増殖させてみせるのに対し、リヒターは律儀にも、自らの「手」を使ってそれを行う。この時、画家は画家であることをやめ、描き写すという作業に徹し、自らを描く機械として非人間化させている。つまり「描く」ことによって「イメージを生成させる」という、描く行為とイメージ生成との回路を断ち切って、描くという行為を空洞化し、行為とその結果(作品におけるイメージのあらわれ)との関係を切り離す。ウォーホルは、イメージの転写(翻訳)の過程をあっさりと機械に譲り渡し、シルクスクリーンの写真製版技術によって、制作を工業化しさえもするのだが、それは、イメージの機械的反復、増殖を可能にするだけではなく、同時に、イメージの増殖の過程から身体を切り離しているので「自分の身体」を密やかに温存することが出来る。しかしリヒターは、イメージを自らの手で描き写しているので、不毛なイメージの増殖(生産)の過程が内在化されており、(しかし描くこととイメージの生成とは切り離されているから)、そこで一旦、画家としての身体をより徹底して「殺して」いるのだ。初期(60年代)のリヒターの作品の意味(内実)は、このような、画家の身体(描くこととイメージが生成されることとを繋げる回路)のより徹底した抹消にあり、その「空虚」の「深さ」であるだろう。だからリヒターは、この時期の作品にのみ意味=内実がある。
●70年代以降のリヒターは、このような(画家としての)空虚な身体を抱えたまま、イメージの参照元を拡大してゆくという形によって、それをなんとか埋めようとしているようにもみえる。しかしそれは、増殖され、巨大化されればされるほど、そのハリボテのような希薄さばかりが拡大されてゆくように思う。そこから見えてくる空虚は、もはや密度や深度を持ったものではなく、たんにスカスカなもののようにしかみえない。