川村記念美術館のゲルハルト・リヒター展(2)

(昨日観た、川村記念美術館ゲルハルト・リヒター展について、もう少し)
●リヒターのやっていることはつまり、絵画に「出来ること」の様々なる意匠のリスト(一覧表)を、自らの手でやってみせることで、示し、作り上げるということであり、そのリストによって「絵画を殺す」ということで、その(個々の)作品は見事なまでに「仏をつくって魂を入れず」で、徹底的に内実を欠いている。ここまで、自身の感覚の揺らぎや情動を消失させて、まるで描く機械であるかのように徹底した不毛を実践している画家は他にはいないだろう。(リヒターの絵は、作家を必要としない、機械によって描かれた絵であるようだ。)この展覧会を見ていると、美術館の展示全体で、(何万年も前から続いて来た)美術や絵画をバカにしているとしか思えないのだが、しかし、それは薄ら笑いや嘲笑によってバカにするのではなく、驚くべき誠実さと勤勉さと執拗さによって「バカにしている」のだ。そのような意味において、リヒターはやはり、驚くべき「怪物」ではあるのだろう。徹底した「不毛」を執拗に反復するリヒターは、勤勉に廃墟を建設しようとする建築家のようだ。このような、一つ一つは形骸化した死体のようなものの、ひどく大規模な反復と増殖とを、一体どのような欲望が支えているのだろうか。展覧会を見ていて、この尋常ではない「寒さ」に、ぼくは堪え難い思いを感じた。リヒターの絵画の示すイメージは、徹底して(意図的に)上っ面だけで、それは、会場に、展示風景そのものや、絵を見る人々を写しだす、鏡や半透明のガラスが設置してあることからも明らかだ。例えば、映画のスクリーンが、どんなにつまらない映画でも、とんでもない傑作でも、同様に映し出すように、リヒターにとって絵画とは、どのようなイメージでも同等に映し出す鏡(スクリーン)のようなものでしかないのだ、ということを、ガラスや鏡があからさまに示している。(だからリヒターの絵は狭い意味での「視覚」にしか関わらず、図版で観れば十分なのだ。)リヒターの絵は、大量生産される工業製品と同じように、それを生産するリヒターという人の欲望や実存とは全く無関係に、機械的に、自動的に(しかし、勤勉に、執拗に)生産されているようにみえる。(図版で観れば充分であるような絵を、わざわざあんなに巨大化して、大量に、しかも手仕事によって、つくりつづけるという、その不毛な生産性の高さに驚くことにのみ、リヒターの絵の楽しみかたがある。)リヒターの作品に、ダダイズムなどによって代表される「反芸術」とは異なる「新しさ」があるとすれば、反芸術運動(つまりそれは「革命」を志すものだろう)にあったような「熱さ」がリヒターには全くないというところだろう。(その点で、リヒターはデュシャンに近いかもしれない。)反芸術とは一種の革命であり、あらゆる既成のもの(制度)からの切断への希求という、祝祭的高揚と無縁ではないだろう。(ダダに限らず反芸術的な作品における、一見クールな機械的反復は、それが伝統からの切断を感じさせること、そして「未来=新たなもの」の到来を感じさせること、と関係があり、つまり今あるものの破壊と未来への希求という情動と結びついている。あるいはそれ以前の、もっと幼稚な破壊の欲望と結びついている。)それは芸術という「制度」の破壊(への希求)をも意味するであろう。しかし、リヒターにおいては、芸術(絵画)という「制度」は存続させたまま(というかそれに「依存」したまま)、その内実(実質)だけを抜き取って空洞化させ、崩壊させてしまうことこそが、目指されているようにもみえる。
●リヒターの絵の展示は、同じスクリーンに、昨日はハリウッドのSFXを使った大作を、今日はヨーロッパの低予算の文芸ものを上映したから、明日はアジアの映画を上映しよう、という風に並べてあるようなものだ。(そこで映画そのものはほとんど問題にされていない。)そのように並べて何を示そうとしているかと言えば、映像が浮かび上がるためにはその下にスクリーンの存在があって、どんな映画が上映されても、結局スクリーンそのものは見えないんだ、ということのみを示しているとしか思えない。それは、鏡を絵に描くことは出来なくて、ただ、鏡に映った像を描くことで、鏡の存在を示すしかない、ということで、それは(デリダの書くような意味での)「基底材」の問題とも関わり、この問題は別に新しいものでも珍しいものでもなんでなく、むしろ絵画にまつわる伝統的な(根本的な)問題のひとつだろう。リヒターは、そこにはスクリーンがあるんだ、そしてそのスクリーン自体は見えないんだ、ということを「暴きたて」ようとしているわけではなく、それを示すことが作家としての自らの独自性の証になると考えているわけでもおそらくなくて、画家である自分に出来ることは、スクリーンに投影する映画をかえつづけることで、映像の下にあるスクリーンそのものの存在を示そうとすることくらいしかなくて、ほかにやり方もしらないし、やりたいこともないので、延々と、淡々と、ただそれだけをつづけている、という感じなのではないか。同様の問題は例えばモネの睡蓮の連作なんかにもあるのだけど(というか、潜在的にはあらゆる絵画にあるのだけど)、ただ、モネは、その問題だけに興味を持って絵を描いていたわけではないし、モネの絵から「その問題」だけしか見えてこない、なんていうことはなくて、もっと様々な問題が複雑に絡んで絵は描かれているし、そして、絵からは、もっと沢山のものが見て取れる。しかしリヒターの絵からは、ほとんど「その問題意識」のみを扱う「ほとんど同じ手つき」しか見えてこない。だから、何枚絵を観てもどれも同じで、沢山絵を見れば見る程、どんどんかったるくなって、「見る」ことが面倒臭くなってしまうのだ。(リヒターの絵には、驚く程「見ることを活気づけるもの」が欠けている。)
●まあ、簡単に言えばリヒターは、絵画(史)を参照元とした自己言及的なポップ・アートみたいなものだと思うけど、ポップ・アートが、高度に発達した資本主義という環境を生きる(空虚さや無力感も含めた)「気分」をその作品の内実として持つのに対し、リヒターの作品にはそのようなものはない。あえて言えば、空洞化した「アート界」そのもののもつ荒んだ自意識を表象しているとは言えるのかもしれないけど。
●全部で50点以上になるリヒターの作品を、ぼくは10分足らずでさらっと観てしまって、それ以上じっくりと観る気には、なかなかなれなかった。というか、リヒターの絵はじっくり観ることを許さないような絵だと思う。(実際には、常設展を観た後しばらくして再び、もう少しじっくり観はしたのだが。)リヒターの絵がぼくにとって堪え難いものだったおかげで、普段じっくり観ることはまずない、(コレクション展の)藤田やシャガールの絵までもを、かなりじっくりと観てしまった。