三鷹市美術ギャラリーの「絵画の湯」

●eyck氏の記事(http://d.hatena.ne.jp/eyck/20051212)に誘われて、三鷹市美術ギャラリーの「絵画の湯」展を観に行った。これは本当に良い展覧会だった。「良い」というのは、作品の質は勿論だが、展覧会としての「あり様」として、奇跡的に上手く言っていると思う、ということだ。この展覧会は、MAG-netという(三鷹市美術ギャラリーでおこなわれる展覧会の解説員をするボランティアによってつくられた)NPOによって企画されたものだそうだ。この展覧会の成功は、まず、このMAG-netの人たちの(ごく普通の意味での)センスの良さに依っているように思われる。ありがちな、「なぜこれが芸術なの?」みたいな感じの(現代美術入門みたいな)啓蒙的な展覧会がほぼつまらないのは、それが美術史や美術をめぐる言説を無意識のうちに自明のものとしていて、それを(無知な人に対して)「解説」するという風に構成されてしまうからで(それは一見開かれているようで、ある価値観の柔らかな強要ですらある)、それに対してこの展覧会が面白いのは、この展覧会をつくっている人たちが先ず、「自分の目」で作品を観、それを判断し、楽しむことが出来ているからだと思われる。そしてあくまで、その経験をベースとして、展覧会が作られているように見えるということだ。つまりそれが「センスが良い」ということなのだ。例えば、ある人の「趣味」が自分と決して相容れないものであったとしても、その「趣味」がその人の人柄の良さを顕わしているように感じられれば、人はその「趣味」を受け入れるだけでなく、楽しむことさえ出来るだろう。だからこの展覧会は、「美術の言説」を前提にしてはいないが、しかし、「目立てば、楽しければ、新しければ、何でもあり」というのとも明らかに違う。そこには、それを選んだ人たちの生きて来た時間の蓄積があり、見識の蓄積が感じられる。(別にしっかりとしたコンセプトがあるわけではないこの展覧会が、たんなる作品の「寄せ集め」にみえないのは、そこに展覧会をつくっている人たちの「趣味=目」が感じられるからだろう。)
そして二つ目に驚くべきことは、この展覧会の質の高さを支えている、三鷹市が収蔵する美術作品のコレクションの質の高さだ。おそらく「市」という単位で美術品をコレクションするのは、予算的にも大きな制約があると思われ、実際、今回展示されている作品も、戦後の日本で活動する作家にほぼ限られていて、世界的に活躍する巨匠や、歴史的な作家・作品などに比べれば、「値段」として安いだろうと思われる作品に限られている。(版画が多いというのも、予算の少なさと関係があるだろう。タブローであったとしても、それほどサイズが大きくないものがほとんどだ。)この展覧会に展示されている作品が示しているのは、コレクションの質をきめるのは予算よりも「目」であるということだろう。はっきり言えば、この展覧会には「驚くべき傑作」のようにものは展示されていないのだが、しかし全体としての質の高さには「驚くべき」ものがある。ぶっちゃけ、良い画家の全ての作品が「良い作品」というわけではないし、逆に、たいしたことのない作家にも「意外な傑作」があったりする。それを見分けるのは、美術史や言説の上でのその作家や作品の「位置」などに惑わされない目利きの「目」でしかないだろう。くり返すが、目利きというのは、自分の目で見て、自分の頭で作品について判断できるような、その人にとっての趣味のようなものが存在する(「趣味」の存在が感じられる)、ということで、ある(認可された)「正しい判断」を代行する権威、というような意味ではない。
三つめに驚くべきことは、この展覧会が、三鷹市の収蔵作品を使って、民間の団体がつくっているということだ。ぼくは美術館などの内情に詳しいわけではないのだが、学芸員でも、専門の批評家でもない(あるいは企業がお金をだして協賛する、というのでもない)、民間の団体と、公共のコレクションとが協力して展覧会が行われるいうことはあまり聞かない。これは勿論、三鷹市とMAG-netとの間に長い時間かけて築かれた信頼関係があってのことなのだろうけど。
●この展覧会の最も良いところは、現代の美術がどうなっているかとか、このような作品が何故このようにつくられたかとか、そういうことととりあえず関係なく、「普通に良い絵」(が感覚に訴えてくるもの)を、普通に見られるようにつくられている、ということだと思う。このような、「センスの良い」展覧会が、もっと頻繁に、いろんな場所で行われれば、美術に(日常生活のなかで、普通に、無理せず、習慣として)興味をもつ人も増えるのじゃないかと思った。当然のことだが、美術でもっと重要なのはまず作品に触れる経験(の蓄積)のはずで、それよりも前に歴史や言説から入ってしまう人たちの貧しさが「美術界」を鬱陶しく覆っている現在、この展覧会はとても貴重なものだと思う。(「正しい」歴史や言説に意味がない、と言っているのではない。念のため。)