●ぼくの展覧会で受付をやってくれている女性(このギャラリーは基本的に川崎市文化財団がやっているので、この女性は美術の専門家としてのギャラリストではなくて、文化財団にパートで雇われているフツーの人だと思われる)が、小さい頃から絵が好きだったんですか、みたいな事をぼくに聞いてきて、で、まあ、割と好きでしたねえ、みたいな話をしている流れで、その女性が孫の話をしてくれた。その孫も絵が好きで、放っておくと、そこらじゅうかまわず落書きしてしまうそうで、油性のマジックで、ガラスとか壁とかにガンガン描いてしまうから、娘(その子の母親)は家では絵を描かせないんですよ、とか、そういう話だった。わたしは、ここ(ギャラリー)で貰って来た美術館のポスターの裏に描かせたりするんですけど、娘は家を汚されるのでそういうの嫌がるんですよ、とか言っていた。まあ、これはたんなる当たり障りのない世間話にしか過ぎないのかも知れないけど、ぼくの作品を観て、その孫の話をしたということは、この女性が(都合良く解釈すれば)ぼくの作品から、その子供(孫)が、ガラスでも壁でもかまわずマジックでガンガン描いていってしまう時のような身体的な力動に近い何ものかを感じとったということのはずで、そうだとすれば、ぼくの作品からこの女性に確実に伝わった何かがあるということで、ぼくの絵も、決して全くつまらないというわけではないのだなあと、嬉しく思った。
●こういう言い方をすると、ある種の人たちを無駄に刺激することになってしまうかもしれないのだけど、「○○について語るなら、最低限××について押さえておくべきだ」とか、「そういうことは、○○をちゃんと勉強してから言え」とか、そういうようなことを言う人は、多くの場合、お前は私が「前提」としていることを、同じように「前提」にしていないではないか、ということを言っているに過ぎないのではないか、と思う。(そしてそれは、同じ「前提」を共有する玄人集団の既得権を守ることにしかならないのではないか。)しかし、あなたが「前提」としていることが、何故、当然わたしも「前提」とすべきことだと言えるのか。むしろ作品とは、そのような共通の「前提」など成り立たないところで、何かを伝達し得る強さがあるからこそ貴重なのではないか。私は、私の問題、私の興味、私の資質、私の趣味、私の症候を徹底して追求することで、作品にある充実を与え、その充実によって、私と、問題、興味、資質、趣味、症候を共有しない、全く別の問題、興味、資質、趣味、症候を抱えている人の触覚にも、何かしら触れることが出来るものが生じ、その時こそ、(事後的に)作品に意味が生じる。共通の前提や文脈があてに出来ないところで作品をつくることは、それをつくる者に大きな負荷を与えるのだが、同様に、それを受容する(読み込む)側にも、高い負荷を要求する。(共有される前提や文脈や問題のないところで作品を「読み込む」ことは、作品を「作る」以上に難しいかも知れない。)しかし、そのような高い負荷によってこそ、作品という特異なコミュニュケーションの意味が生まれるのだと思う。
●と、言うわけで、ぼくの今回の展覧会も残すところあと2日となりました。まだ観ていない人は、是非観てみて下さい。別に、買ってくれとか、感想をくれとか言いません。とにかく観て下さい。