●学生の時、いくつか学年が上の先輩で、とてもいい作品をつくる人がいて、特に親しいというほどではなかったけど、一定の交流があった。ぼくが卒業して何年かした後の展覧会に、その人が来てくれたことがあり、大して長く話したわけではないが、少し会話を交わした。その、短い会話だけで、人は、ほんの二、三年のうちに、こんなにも嫌な屈折の仕方をするのか、と感じられることがあって、とても傷ついたという記憶がある。その人に言われたことに傷ついたのではなく(その人が言ったことは本当に下らないバカなことなので、傷つくまでもない)、社会に出てもなお、作品をつくりつづけてゆくという困難な環境が、人をこんな風な形で歪ませてしまうのか、これは「必然的」なことなのか?ということに、大学を出てまだ二、三年という時期だったぼくは、とてもショックを受けたのだった。それ以来、「ある種の屈折」に関して、ちょっと過剰に防衛的になりすぎたかもしれないと、今になって思う。人と会って話した時に、ほんの少しでもその手の「屈折」の匂いがしたら、もう、その人の属する人間関係にはけっして近寄らないようにする、という感じで。そのせいで、あまりにも狭い関係のなかだけで生きてきたかもしれないとも思う。しかしそうだとしても、あの「屈折」にだけは、死んでも染まりたくない、あそこにハマったら終わりだ、という気持ちは今でもずっとつづいている。
学生の頃の、また別の話。年齢は下だが学年は上の、見るからに危なそうな外見の、パンク+右翼みたいな恰好をしていて、アトリエの壁を独占するようにして、3メートル×2メートルくらいの巨大な画面に、キーファー風に皇室の人たちの肖像を描く、というような(見た目そのまんまな)作品をつくっている人がいた。見た目が突飛な人は往々にしてそうなのだが、内向的で人見知りが激しく、無口な人で、時々、酒をのんで破壊的な行動に出る以外はとても大人しい人という印象で、ぼく自身もまあ似たようなものなので(飲んでも破壊的な行動には出ないけど)、特にこれといって親しく話をしたという記憶はないのだが、共通の女性の友人がいたので、共に時間を過ごすことが何度かあった(ある種の「男の子」にありがちだが、同年代の同性に対して、どうしても過剰にバリアーをはってしまって簡単には親しくなれないという傾向があり、そういう時に媒介者として間に女性がいるととても助かる、まあ、甘ったれているだけなのだが)。関係と言えばそれだけで、ぼくの方ではその突飛な恰好と派手な作品で印象に残っているが、向こうではおそらくぼくのことなど憶えていないと思う。そんな感じだから、卒業した後は一度も会っていないし、どうしているのかも知らなかった。
何年か前に、その人と同じ名前、同じ年頃の画家が、雑誌の記事としてかなり大きく紹介されているのを見た。作風はまったくかわっていて、いまどき風の、キモカワっぽい女の子が描かれている絵だったのだが、おそらくあの人で間違いはないと思った。ぼくなどからすればうらやましいような有名なコマーシャルギャラリーでの個展の記事で、後から人づてに聞いた話では、あるとても有名な画家のアシスタントをしているらしい。その記事を見た時、あの、いかにも社会に適合するのが困難そうな感じの人(ぼくも人のことはまったく言えないのだが、この前「社会性が中学生以下」と言われたし)が、大学を出た後、二十年ちかく経ってもまだ作品をつくりつづけることが出来ていて、しかも、有名な画家のアシスタントという、割合と安定して恵まれてもいる位置につくことが出来ているという事実が(勿論、実情としてはいろいろあるのだろうけど)とても嬉しくて、世の中、けっして捨てたものではないのだなあと思った。本屋で立ち読みしていたのだが、ほとんど泣きそうだった。(たんなるノスタルジーなのかもしれないけど、卒業して長い時間が経ち、いろいろな人たちのその後をみていると、学生の頃に知っていた人が、ただ、つづけられていることを知るだけで嬉しくなる。ごく一部の高く評価された人以外、美術家が長く作品をつくりつづけることはとても困難なのだ。どうでもいいことだが、浅野忠信が演じるカツオがバットを振るのを観る度に、熱い思いがこみ上げて来る。)
前者の例と後者の例の違いが、一体どのような理由によって生じるのかはまったく分からない。たんに偶然の作用に過ぎないのかもしれないし、もともとそういう資質をもった人だったということなのかもしれない。ただやはり、あの意地の悪い「屈折」にだけはハマってはいけないのだということだけは、今でも思う。島田洋七の、有名な佐賀のがばいばあちゃんのネタにある、「大丈夫、頭悪いから貧乏だってことに気づかへんから」というような「抜けた」楽天性こそが大きな武器なのではないかと思う。中途半端に頭が良かったり、状況が見えていたりすることなんか、大して役には立たない。