●個人的なつまらない話だが、『構造と力』を読んだのは高校一年の時だった。日本の現代文学大江健三郎中上健次金井美恵子や、当時「現代思想」と呼ばれていたようなものなどを読むようになったのも、高校一年の年、1983年だ。しかしその時、同じような本を読んでいた人はまわりには一人もいなかった。学校の友人たちとか、日常的に接する人たち、日常的なリアルな生活圏とそれらの本に書かれていることとは、まったく何の接点もなかった。読んだ本について話が出来る人も一人もいなかった。それらの本の内容は、孤独のなかで読まれ、ただ孤独に受け止められるだけだった。その後、「批評空間」などを購読している時も、まわりに同じものを読む人はまったくいなかった。予備校でも、大学でも。そして、それはそういうもので、当然のことだと思っていた。おおきくみれば、ぼくはドンピシャで、ニューアカ世代であり「批評空間」世代であるのだが、そのような世代のくくりと、自分がまったく一人だけで、誰とも共有できずに、日常の生活とはまったく無関係に、それらの本を読んでいたという記憶とはまったく重ならない。商業的な出版物なのだから、自分以外にも読んでいる人は多くいるのだということは勿論思っていたが、そういう人たちと自分とは切り離されていて、実感として孤立していたという印象しかない。ぼくがニューアカ世代だということは、つまり、ぼくと同じように孤独にそれらの本を読み、ただ孤独にそれ受け取っていた同年代の人たちが、互いに何の関係もないまま、全国に多数散らばっている、ということなのだと思っていた。
だからなのか、ぼくには、芸術や文化というものは、ただ、そのような人たちによってだけ受け止められ、支えられ、伝播されてゆくものだと思いが強くある(学問は、またちょっと別なのかもしれないが)。おそらく今でも、まわりの友達たちとの話題づくりとも、誰か(異性?)の感心を得たいという欲望とも、まわりを見下したいと言う邪心とも、受験や就職の必要性とも、自分の研究分野の必読文献とも、ブログのネタづくりとも、小説家や批評家として一旗揚げたいという野心とも無関係に、職場で、学校で、ただ孤独に、自分自身にとっての必要性だけから、あるいは、ただ面白いというだけから、例えば「変身」や「モロイ」や「三人の女」を読んでいる人はたくさんいるんじゃないかと思っていて、そういう人たちのイメージだけが、ぼくの制作を支えている。そういう人は、自分のまわりには一人もいなくても、割合としてはとても低くても、数としては一定数存在していて、つまり、わたしの/あなたの孤独は、けっしてわたし/あなた一人のものではないのだ、と。その孤独は、人類がはじまって以来繰り返されてきた、凡庸なものだとさえ言える。それ(孤独であり、かつ、凡庸であること)こそが希望なのだ。そして、「作品」とは、そのような孤独によってだけ支えられ、受け止められ、(ある孤独から別の孤独へと)伝えられてゆく。遠くまで届くような本質的な仕事は、そのような孤独のなかでしかなされない。作品は、そのような孤独として、個人個人に分離され、分け持たれるという形でしか(その後でしか)、共有されない。
●しかしそれとはまったく別の話として、人が生きてゆくには、目の前の出来事や感情を日々送り届ける宛先としての友人が必要だ。例えば友人の少なかった(今でも少ないけど、今よりさらに)ぼくの二十代は、深夜の長電話に(翌日仕事があるにも拘らず)つきあってくれた、ほんの二人か三人の友人によって支えられていた。その友人たちとは、今ではかなり疎遠になってしまったし、長電話という習慣自体がなくなってしまったのだが。長電話とは、若い頃にだけ与えられた特権的な時間であるように思う。携帯電話が発達した現在では、一度に延々と長く話すというより、メールなども含めて頻繁に連絡をとるという方が一般的なのかもしれないけど(そういうのはぼくには滅茶苦茶めんどくさくて無理なのだが)、ぼくが若い時は、実際には年に一、二度くらいしか会うことの出来ない友人と、だいたい月に一度くらの感じで、深夜から朝方まで何時間もだらだら話していた。年齢を重ねると、体力的なこともあるし、家庭をもったり、仕事が忙しくなったりして、そのような時間をとることが困難になる。いや、ぼくの方は全然大丈夫なのだが、相手の方がちゃんとした家庭をもった社会人なってゆくのだ。
で、ふと思ったのだが、この「偽日記」というのは、ぼくにとって、失われてしまった長電話の代替物のようなものとして機能していたのではないか。電話する相手がいなくなってしまったので、友達を付き合わすのを遠慮せざるを得なくなってしまったから、「日記さん」とお話する、みたいな。いいかげんな思いつきだったけど、けっこう信憑性がある気がしてきた。「偽日記、よくつづきますよね」と人から言われて、「多分、友達が少ないから」と、半ば本気、半ば冗談で答えることがあるのだけど、友達がいないんじゃなくて、「日記さん」こそが友達だったのだ。友人たちが皆、「学生」の延長のような生活から脱してゆかざるを得なくなるようになっていった三十代の始め頃に、偽日記がはじまったというのも、そういうことなら納得出来る。それでも自分だけは学生のような生活をつづけるために、三十代のはじめ頃から、毎日ずっと、日記さんを相手に、日記さんとお話しながら生きてきた、と。偽日記が、ノートに書かれる日記ではなく、どこに届くか分からないけどどこかと繋がっているという期待が持てるウェブ日記(だからこれは決して「ブログ」じゃない)としてあることも、長電話の替わりであるためには必須のことだったのだろう(ぼくはそれまで日記をつけたことは一度もなかった)。誰か分からないし、いるのかいないのかも分からない「誰か」としての「日記さん」へ。(この「日記さんへ」という言い方は、「WALK」の日記特集の小澤英実さんの日記からパクリました。)
磯崎憲一郎「終の住処」の冒頭には、次のような文章が書かれている。
《彼も、妻も、結婚したときには三十歳を過ぎていた。一年まえに付き合い始めた時点ですでにふたりには、上目使いになるとできる額のしわと生え際の白髪が目立ち、疲れたような、あきらめたような表情が見られたが、それはそれぞれ別々の、二十代の長く続いた恋愛に破れたあとで、こんな歳から付き合い始めるということは、もう半ば結婚を意識せざるを得ない、という理由からでもあった。》
これはまるで、ぼくと「日記さん」との出会いとその関係が記述されているようでもある。ということはつまり、「日記さん」はぼくにとって友人であるだけでなく「妻」ですらあるのか。これからずっと、ぼくは「偽日記さん」と二人で暮らしてゆくというのだろうか。それはちょっと、簡単には認めたくない話ではあるけど。
《それから何十年も経って、もはや死が遠くないことを知ったふたりが顔を見合わせ思い出したのもやはり同じ、疲れたような、あきらめたようなお互いの表情だった。》