2025-02-01

⚫︎現在の日記ブームについて、ぼくから言えるようなことは何もないが、それで思い出すのは、25年前にも日記ブームがあったということだ。90年代終わりから2000年代初めのインターネット初期において、インターネットといえば、まずはウェブ日記掲示板だった。あの頃、多くの人が日記を書いていたし、掲示板では日々、熱い議論が交わされていた(インターネットはまだとてものどかで、「荒らし」のような人がいないわけではなかったが、それも議論の「熱さ」の一部という程度で、現在のように荒れることはほとんどなかった)。この「偽日記」もまた、そういう流れの中で始まった。

(2ちゃんねるとかが酷かったとも言えるが、それでもまだ、今と比べればずいぶんのどかだ。)

そして、リアルタイムでは予想できなかったのだが、その当時にウェブにあった日記や掲示板は、今では参照することがまったくできないくらいに、跡形もなく消えてしまった。紙に印刷されたものであれば、相当マイナーなものでも国会図書館へ行けば参照できるが、当時のウェブ環境を参照し、調査することは今ではほぼ不可能なのではないか(アカデミシャンで誰かやっている人はいるのだろうか)。

物理的に消えただけでなく、ぼくの記憶の中でも薄れつつあって、当時読んでいた日記のタイトルをいくつか挙げようと思ったのだが、固有名(タイトル)が全然出てこない。好きで読んでいたものがたくさんあったはずだし、大手出版社から商業出版されている多くの「エッセイ」などよりずっと高度でセンスもあり、面白いと思っていたのに。もちろん、まったく忘れてしまったわけではなく(歳をとると固有名が出てこなくなるのだ)、雰囲気や手触り感としてはとても強く残っている。

その時期に日記に書かれていたことや、掲示板で議論されていたようなことが、今改めて参照するに足りる価値があるものなのかと言われればかなり怪しい。しかし、ここまで何も残らないで消えてしまうというのは、思ってもみなかったし、こんなことがあっていいのかと唖然とする。歴史の一部分が欠落してしまったのだ。

当初の「偽日記」の「支持体」であったso-netのホームページサービスの終了とともに、過去の「偽日記」も完全に消えてしまったし、今、残っている分があるのは、ぼくが自分で、手作業で「はてな」に移動させたからでしかない。

⚫︎ぼくは、作品というものを遅効性爆弾のようなものとして考えている。結局、爆発しないかもしれないが、いつか爆発するかもしれないもの。それは、100年後にまで残って爆発するかもしれないということでもあるが、それよりも、ぼくが生きている限り、若い頃に触れてピンとこなかった作品でも、30年経ってからぼくの中で爆発する可能性がある、というようなことだ。ぼくが生きている限りは、過去に、ぼくの中で生まれたあらゆる問題は決して終わらずに、未然の状態で開かれている。だからこそ、「年間ベスト」とか「本年度の⚪︎⚪︎賞」のような形の、短い単位で仕切って総括するような思考については抵抗したい。

インターネット初期の雰囲気は、爆発はしないまでも、とても良いものとして、ぼくの中で未だ生きているのだが、記憶が曖昧なところがあっても参照できないというのが辛い。ほんとに、まったく、信じがたく、「あの頃」がまるっと消えてしまっている。

(追記。佐藤雄一は、「投壜通信」ではまず、途方もない時間・距離の放浪を可能にする「壜」の強度こそが重要だと書いた。インターネットには「壜」としての強度がなく、海に流した途端にメッセージを記した紙は水に溶けて流れてしまったと言うことか。佐藤の言う「壜の強度」は具体的には暗誦を可能にする詩のリズムのことだが。)