2024/02/21

⚫︎佐藤雄一が『クォンタム・ファミリーズ』について東浩紀にインタビューして、同時に批評も載っている小特集をやった雑誌をずっと「新潮」だとばかり思い込んでいたが間違いで「ユリイカ」だった。いくら探しても見つからないはずだ。そして、間違いが分かればすぐに見つかる。以下、佐藤雄一「QF小論」(「ユリイカ」2010年5月号)より引用。投壜通信は「壜」こそが重要だと説いている部分。

《(…)そもそも「可塑性」とはなんでしょうか。フランスの哲学者カトリーヌ・マラブーヘーゲル精神現象学』を読みこみながら次のようにいいます。「「可塑的」とは変形作用に抵抗しながら形に譲歩することを意味する」。ここでの「可塑性」概念は、ヒュレー(材料)なきモルフェーと、モルフェーなきヒュレーが結びついて個物が現象化するという、ギリシャ哲学以来の図式に対し批判的射程をもっています。たとえば、設計図(モルフェー)があっても液体では家を建てられないように、形を与える力とそれに抵抗して形を守ろうとする力が準均衡してはじめて、個体が現実化します。(…)金型の力と銅の可塑性の両方がそろって、銅像ができることを想像すると理解しやすいでしょう。この稿ではモルフェーを相対的に長く維持する「可塑性」を「高粘度の可塑性」と呼んでみます。》

《「投壜通信」という言葉は、日本ではおうおうにして次のような高踏的なニュアンスで用いられます。難解であったり崇高であったりして、安易にマスを寄せ付けないような作品を提出しても、少数の人に受容されればそれでよしとする…けれど、「対話者」を書いた当のマンデリシュターム自身はそのような高踏的な詩人ではありません。むしろ、自分の出発点だったロシア象徴主義未来派を、難解な言葉遊びとして批判するアクメイズムの中心人物でした。彼は、「アクメイズムの朝」(一九一四)で、詩の言葉は、まさに建築資材のように「抵抗を示す素材」(例えば石)として明確に存在しなければならないと主張しています。では、そのような詩人の主張する「投壜通信」を今日どう読むべきなのか。「壜」に強いアクセントをおくべきだと、わたしは考えます。彼は「投壜通信」の受け手として、「遠い子孫」や海の向こうにいる「遠い未知の名宛て人」をあげます。けれど、無限遠点にすらみえる彼らに届くためには、途方もない懸隔の時間、あるいは距離を漂流できる「高粘度の可塑性」をもった「壜」が必要です。ここまで「抵抗を示す素材」といったマンデリシュタームの言葉や、デリダが指摘した「暗記する=心臓で学ぶ」ものとしての詩についてみてきたわたしたちは、この「投壜通信」を「ほかならぬ詩によって、詩を長く漂流させるための壜をつくること」としてとらえられるでしょう。モルフェーを記憶に残すための「高粘度の可塑性」をみずからでつくるのが「投壜通信としての詩」というわけです。》

⚫︎ここで「高粘度の可塑性」を持つものとして挙げられているのは、詩は「暗記する=心臓で学ぶ(apprendrc par coeur)」ものだ、というデリダの言い回しから導かれる「リズム」だと言えるだろう。そしてさらに、詩が翻訳可能であるのは、言語が移動されることで母語のもっていたリズムがいったん破壊されたとしても、転送先である別の言語の中で同様のリズムが再生可能であるような「固有値」が、詩(リズム)には含まれているからだ、となる(翻訳を経てもなお壊れない「壜」)。つまり、高粘度の可塑性を持つ「壜」とは、高度に抽象化された数学的な概念である「固有値」のようなものとして考えられている。「石」に例えられるような強い物質的抵抗を持つ「壜」は、実はもっとも物質から遠いように思える「固有値」としてとらえられている。というか、固有値こそが「物質性」であるということか。目で見たり手で触れたりできないばかりか、イメージすることさえ困難であるが、とても堅牢な「壜(物質性)」としての固有値。そのあらわれとしての「リズム」。

(エリー・デューリングのように「プロトタイプ」といっちゃうと、違っちゃうのか…。)

《(…)デリダは、マラルメによるエドガー・アラン・ポーTHE BELLSの仏訳にふれながら、次のようにいいます。「ポーの押韻が保持できないのは、もちろんだが、あらゆる階梯で、あらゆるリズムの鼓動(battement)は、可能な支持体あるいは質料的表面がなんであっても、可能な限り保持される」。》

《詩が、なぜ翻訳できるかという問題に対するシャープな見解といえるでしょう。そしてこの見解を受けて考えれば(1)「apprendrc par coeur」というのは、支持体なしにモルフェーが保存されるということではなく、「coeur」(心臓)の「apprendrc」(鼓動)が、「高粘度の可塑性」をもった支持体として、記憶のなかにモルフェーを保持することであり(2)そしてそのような「鼓動」(apprendrc)が母国語を離れても保持しえるのは、モルフェーを生成する作業そのものを通じて「高粘度をもった可塑性」をもった支持体を自己生成できる「固有値(Eigenwerte)」としてのリズムがあるからだ、ということになるでしょう。》

《(…)詩が、言葉を残す支持体があらわれる前から、韻律によって暗記させるための記憶装置であったことは、常識的に理解できることです。また、近い過去でも、言葉を残すための支持体を奪われた状態では詩だけが残ります(EX ラーゲリ石原吉郎)。》

《(…)「固有値」は量子力学や数学の外で、サイバネティックスの文脈に「翻訳」されています。(…)システムはシステム外との境界をみずから引くことで自らを再生産させるという、間断のない自己生成の状態にあるわけですが、そのなかで、比較的に安定した準均衡として「固有値(Eigenwerte)」は考えられています。ここでは、数学の「固有値」という概念が、「あるシステムが変化するなかで、モルフォー(形)が保持される適性粘度の可塑性が自己生成され、相対的に安定した状態」として翻訳されていると言えるでしょう。》

⚫︎この点について、もう少しイメージ可能な例として、たとえば註には次のように記されている。HIP HOPという、高粘度の可塑性を持つ「壜」。

《(…)韻文のスケールフリー性(一行でも「詩」たりうる)は物理的に、「わたし」と「あなた」の双方向的な「詩」の発信(具体的には句会、サイファー、連歌などを考えればよい)を可能にし、「淘汰」を複数回試行できるがゆえに、「わたし」と「あなた」が消えた状態でもその言葉のリズムを残存させる生存率をあげることができる、と。このパースペクティヴをたてることで、「詩」に固有のサスティナビリティを神秘化させずに考察することができ、またリズムの動性をとらえることができる。拙稿「HIP HOPとはなにか?」(『ユリシーズ』二号、シンコーミュージック、所収)では、そのパースペクティヴにもとづいて、HIP HOPにおけるリズムの動性、特に不可能だと思われていた、英詩の弱強、脚韻を二モーラ単位の語数律である日本語の韻文に翻訳する作業が、HIP HOPにおいて成功し、かつその翻訳が土着化していることを具体的な作品に即して指摘している。》

⚫︎ぼく個人としての「投壜通信」への興味は、「高踏的で孤高であるような態度」でも「誤配」ということでもなく、それによって「近さ/遠さ」という通常の距離の感覚が無効になってしまうというところにある。近くにいる親しい者にデタッチメントを感じ、はるか遠くの「子孫」の方を身近なコミュニケーションの届け先と感じる。ここには、触れ合ったり抱き合ったり、生活を共にしたりするということとは全く別の距離や親しさの感覚がある。近くて遠いものと遠くても近いものが、さまざまな濃度でいくつも重なり合って、非連続的で複雑な時空が組み立てられる。そもそも「手紙」というものが、それだけで相当に時空を混乱させるものだ。

⚫︎『クォンタム・ファミリーズ』をハブにすることで、擬似私小説としての大江健三郎(『水死』)、暗号・書簡小説としての小島信夫(『寓話』)、さらに、量子論的な離散的で並立的な世界観による小説としての、うえお久光(『紫色のクオリア』)、福永信(『星座から見た地球』)、柴崎友香(『ビリジアン』)などを立体的に重ねて検討できるのではないか、と、チラッと思った。