2021-12-05

●代官山のアートフロントギャラリーの浅見貴子展(未然の決断)、最終日に滑り込み。

浅見さんの作品を久しぶりに観たのだが、以前より空間性が前に出ているように感じられた。前から、木のつくる空間を描いているのだが、その空間は、出来上がった絵としては、大小さまざまな黒い点の明滅によってつくり出される複雑なリズムの混交へと翻訳され、空間というより多様な振動の複合という状態が前に出ていたように思う。

しかし、今回観ることのできた作品では、梅と宿り木を描いた作品も、松と霧を描いた作品も、そして網戸越しの庭を描いた作品も、三次元的な空間を強く惹起させているように思えた。綿の木を描いた作品は、これまでの延長かも。

特に強く三次元性を感じたのが、梅と宿り木を描いた作品たちで、中心があり、その中心のまわりを旋回するように点が配置されているような空間がつくられているように見えた。浅見さんから、梅の木と、そこにまとわりつくように伸びている宿り木を描いたと説明されたのだが、宿り木のつくる動きが、画面全体の空間構造へと拡張され、構造を決定しているのかもしれない。複雑なリズムの明滅に、らせん状に旋回するような、深さのある大きな空間構造が加わることで、画面の複雑性が増すと同時に、ダイナミックな動きとある種の「見やすさ」のようなものも生じていると思った。

中心があると言っても、つよい求心性をもつ感じではなく、旋回するような空間構造も一筋縄ではなく、複数の方向性の異なる軸があり、複数の異なる旋回空間が重ねられているようだ。だが、中心となる軸には、方向性の異なりがあるとはいえ、逆方向へ振られる程の大きな異なりはなく、傾き方の一定性はあって、この、傾きのある程度の一定性もまた「見やすさ」を生んでいる原因の一つかもしれない。

松と霧を描いた作品たちでは、作品(フレーム)全体を決定するような旋回空間があるのではなく、画面のなかに部分的に現われるローカルな旋回空間が、いくつも折り重なりながらひろがっている感じだった。このローカルな旋回空間をつくっているのが、松の木にまとわりつくような霧の粒子の動きなのだろう。

松と霧の作品では、多数の、比較的小さな点によって構成される「松にまとわりつく霧」が描写されている部分(画面上部)と、少ない数の大きな点によって構成される部分(主に画面下部)とが、きっぱりと対比的に分けられていて(画面上部にも、画面下部との繋がりをつくるような大きな点は穿たれているのだが)、深さというよりここでは循環と重なりと言った方が適当であると思われる三次元的な空間性(細かく描写される部分)と、穿たれる大きな点によって響くリズム的な振動が、「異なる解像度」で(ある程度の「切断」のショックを含みながらも)重ねられているという面白さがあるように感じた。

網戸越しの庭を描いた作品たちでは、網戸のつくるグリッドにより、画面は空間化するというより平面化するようにも思われる。とはいえここで、網戸そのものを観るのでも、その向こうにある庭の木を見るのでもなく、ここ(網戸)と向こう(庭の木)とがある程度融合しつつも、しかし分離しているという、(網戸から木までの距離という)「厚み」をもった平面のような空間性が出現していると言えるのではないか。

網戸という、媒介物でもあり、遮蔽幕でもあるようなものを一枚通すことで、より大胆な色彩の導入が生じるということも興味深い。