●難しいなあ、と思う。「矜恃を持つが故に、同業の他者に対して厳しい言動をとる」ことが、マウントをとるとか、パワハラとか、老害という風にとられてしまう傾向がある。それは、かなりの程度正しいのだろうとは思う。特に、権力に不均衡がある場合、矜恃の表現が結果としてパワハラになってしまう(あるいは、そのように映ってしまう)ことは、おそらくよくあることだろう。
しかし、このような空気の蔓延はどうしても「批判を封じる」という方向に働いてしまうということも事実だと思う。今、うまくいっているものは基本的に「正しい」のだから水を差すな、となってしまう。気持ちよくなれ合っている空気のなかに、「ちょっと、それはどうかと思うよ」という冷や水を浴びせることができない(それをするとあまりにリスクが大きい)となると、そのような状況はとても危険なことだとも思う。
弱い立場から強い立場への異議申し立てであれば、強い主張や圧力も正当化される。また、フラットな立場であれば「それはどうかと思うよ」と言えるかもしれない。しかし、権力に格差がある場合(実際には権力などなくても、外からみるとそれが権力であるように見えてしまう場合も)、上の立場からのそのような口出しがどうしても抑圧的に作用してしまう(あるいは、そう見えてしまう)。そしてそれは、生産的とはとても言えない、過剰な反発を生みがちでもある。このような抑圧的な効果を、どのように処理すればいいのか。
(あまりに雑に使用される「老害」という語…。)
たとえば、教育という場において上からの抑圧は不可避だろう。抑圧を放棄することは教育を放棄することでもあろう。つまり、抑圧が必ずしも悪ということではないはず。教師と生徒の間には能力と権力の格差があり(そもそも能力の格差がなければ生徒はその教師から学ぶことが何もないということになってしまう)、教師の発言はその意図がないとしても抑圧的に作用する。この「抑圧」には功罪の両面があり、「功」の効果として教育(生徒を質的に「変える」こと)が可能になる。このとき、どの程度の抑圧であれば、あるいは、どのような抑圧であれば(罪としても)適切といえる範囲内にあると言えるのか。
(「生徒を質的に変える」=「育てる」必要がなければ、抑圧を避け、サービスに徹する方が無難だ。教師を媒介とすることで生徒の方が自ら「質的に変わる」=「育つ」ということもあるだろうし、本当はそれしかないとも言えるのかもしれないが。)
だがこれを一概に測ることはできなくて、その都度都度での(各々異なる性質をもった)個別の教師と生徒のあり方によって、それは変わってくるとしか言えないだろう。その時、偶発的な出会いが大きな力をもつ。普遍的に優れた教師像などなく(勿論、最低限の「これはやっちゃ駄目」という範囲はあるとして)、教師と生徒の幸福な出会いもあれば、不幸な出会いもあるだろう。
(あるいは、教師と生徒の間で「教育」が有効に行われるためには、そこにある程度は「転移」が作用する必要があり---ぼく自身、転移がよく作用しない人間であるため、常に教師とよい関係をつくることができなかった人生なのだが---しかし転移は強すぎると害悪が大きくなってしまうので、ここでも、どの程度の、どのような転移であることが望ましいのかが問題となり、しかし同様に、そこに一般的な解はないと思われる。)
当たり前の言い方になるが、物事は常に多面的であり、その一面だけを切り取って拡大するのは危険だ。その行為は、確かにマウントを取るというようなものであり、パワハラ的ですらあるが、しかしもう一面では、状況に対する的確な批判であり、介入でもある、ということも十分にあり得るだろう。だから場合によってはパワハラも許されるということを言いたいのではないことは強調したいが、どんな関係にも権力の不均衡があり、どんな行為にも功罪の両面があり、どんな出来事も(きわめて複雑な)特定の状況のなかで必然的に生じていることなのだ、ということは認識される必要があると思う。
ある行為の正当性を判断するためには、状況に深く入り込んで、細かい力のバランスまで丁寧に検討する必要がある。そして、人の能力には限りがあり、それでもまだ間違い得る。物事をなにかしらの一面から(たとえばそれが「正義」であったとしても)「斬る」というのは、分かりやすく、共感を得やすいが故に、危険なことだと思う。
(弱い立場から強い立場を攻撃するという構えもまた、それが絶対的に正しく、共感も得やすいが故に、危険な側面もあるなあと思う。ある関係のなかで弱者であるような人でも、別の関係のなかでは強者でありえるし、反権威だと自覚する人も、他の人から見たらお前こそが権威だと思われているかもしれないし、しかしそれも、思われているだけで、その人自体に力はそんなになくて、「お前こそ権威だ」と思っている人の方が実際には強い力をもっていたりもする。力というのは多くは自覚なしに使える=使っているものなので、自分自身の力や権力を自覚している人は少なく、多くの人は---実際に強い力をもっていても---自分こそが反権威で、権威からないがしろにされている側で、権威を攻撃するポジションにいると思い込んでいて、しばしば実際は自分より「弱い」権威を攻撃したりもする。自分の権力を意識しない方が楽だし---自分が他人を抑圧し得る力をもつと自覚した途端、手足を縛られ、反省を強いられ、反権威主義者のようには無邪気に振る舞えなくなる---反権威だと思い込んだ方がなんとなくかっこいい感じだし。)