2020-12-30

●よく理解している人なら、難しいことでも分かりやすく書く(話す)、というようなことを、わりと好意をもっている人が書いて(話して)いるのをみるたびに、いつも、すごくもやもやする。こういう発言は、「大向こう(読者)」にむけられた「媚び」としか、ぼくには思えない。難しいことは、どんなにかみ砕いても難しいのだということにかんして、嘘をついている。そのような「媚び」は、結果として、自分自身の首を絞めるだけだとしか、ぼくには思えない。

分かりやすい文章しか書かない人の文章がいつも分かりやすいのは、呑み込みにくいこと、受け入れにくいこと、かみ砕きにくいこと、あるいは、理路を追うのが面倒なことを避けて、通りのよい、受け入れやすいことだけを書いているからだと思う。分かりにくいこと、するっとは呑み込めないこと、難しいこと、書き得ないことを書こうとしないのなら、なんのために書くのか分からない、と思ってしまう。

「分かってもらおうとすること」と「分かりやすくする」こととは違う。「分かってもらおうとする」ことは、対等な立場から(「分かりやすく」することなく、まるごとを)必死に表現することであり、「分かりやすくする」ことは、上から目線で啓蒙することだ。

とはいえ、「分かりやすくする」のではなく、難しいことを理解するためのツボ(あるいは、ここで躓きがちであるというツボ)をよく知っていることによって、理解のよい助けとなることができる、という人はいると思う。

(昔、柄谷行人が、教師と生徒の関係は非対称的であり、生徒の方が立場が上だ、なぜなら、教師は生徒に「分かってもらう」必要があり、分かってもらえなかったら教師たり得ないからだ、というようなことを書いていた。うろ覚えだが。分かりやすくすることなく、難しいままで、分かってもらおうとすること。)

(たとえば、芸術にとって観者は、「観客」ではなく「友人」あるいは「未然の友人」であるはずだ。「人を詩人にするものが詩だ」という言葉---佐藤雄一による---があるが、原理的には、芸術には純粋な観客は存在せず、制作者と未然の制作者、可能性としての制作者がいるだけだ。批評もまた、制作行為の一部としてなければならない。)

(ここではとりあえず「他者」とは言わない。)