宮藤官九郎の新しいドラマ「ごめんね青春」を、朝の時間に再放送でやっていて、昨日(一話)、今日(二話)となんとなく観た。
クドカンのドラマは、細部というかネタのレベルでは、おそらく意図的なのだろうけど、古いネタ、古いパターンが使われることが多くて、このドラマでも、ネタのレベルで昭和の青春モノみたいだし、個々の場面の作劇パターンも、教科書的とも言えるけど、それは昭和のコントの教科書みたいなベタベタな感じで、そういう点ではオヤジ臭くてどうも好きになれないのだけど、しかし「ネタ」は古くてもその「使い方」が斬新だというのが特徴なのではないか。
隣り合った、互いに不仲な男子校と女子高があり、それぞれ一クラスだけ、実験的に生徒を半分入れ替えて共学クラスとする。男子校内の共学クラスは女子高の女性教師が、女子高内の共学クラスは男子校の男性教師が担任となる。男性教師も女性教師も、赴任している学校が母校であり、二人とも高校時代のトラウマをもつ(男性教師は自分自身の、女性教師は姉についての)。また、物語は現在と過去(男性教師の高校時代)という二段構えになっている(男性教師は、教師と生徒の二役と言ってよい)。三島という現実にある土地が指定され、しかし舞台となる高校は架空のものである。ドラマは、ありがちでベタなネタ、教科書通りの作劇に基づくが、常に要素が二つの場所に分裂して、その二つの場所をすごいスピードで行き来することによって、ドラマがドライブする。このドラマに新しさがあるとすれば、律義なまでに徹底されている要素の二項的な分離と、その二項間の「素早い行き来」から生まれる、不思議な浮遊感にあると言える。
(この点に関しては、脚本だけではなく演出が優れているということもあると思う。)
この素早い行き来を生む運動のためのエネルギーは、主に男性教師がもつ「不仲な二つの学校の関係の改善を望む情熱」から供給されるのだけど、そもそも不仲の原因をつくったのは彼の過去にある(それが彼のトラウマであり、彼は未だその罪を告白できていない)。彼の情熱は罪の意識からきているので、彼の存在はマッチポンプ的である。
(物語的には男性教師の罪の意識が分離する二項の行き来の燃料なのだが、画面的には、女性教師の身体運動が「行き来の素早さ」を表象する。この点でも要素は二項的に分離されている。)
つまり、この男性教師は、現在の生徒たちに相対することを通じて、過去の自分をやり直そうとしていて、それに繰り返し失敗しつづけている。あるいは、「罪の意識」が過去と現在との通路になり、男性教師は常にその間を行き来しなければならない(彼は教師になって十年目であるが、未だ自分の過去の「秘密=罪」を誰にも打ち明けられていない)。そんな彼に、二つの学校の生徒の半数入れ替えというチャンスが巡ってくる、というのが話の展開だ。
男子校に女子が混ざり、女子高に男子が混ざるのと同様に、このドラマには、純粋な現在も純粋な過去もなく、現在には常に過去が絡み付いているし、過去は現在との対比を通してあらわれてくる。過去は現在によって冥界から繰り返し呼び出され、現在は過去の影のようなものへと後退することさえある。あらゆる要素がわざわざ二つに分離された上で、双方への行ったり来たりの運動が、それぞれの定位置を失わせ、どちらでもない位置を生じさせる。
(古いネタ、お約束の作劇が、現在のドラマとして新しい形式のもとで再現=再利用される時の不思議な浮遊感も、そのことと通じるだろう。そうすることで、現在でも過去でもない時空が生じる。)
おそらくクドカンがやろうとしているのは、新しさでもノスタルジーでもない、一種の神話的な時空を、ありふれていてベタなネタ(イメージ)を用いて創り出したい、ということなのではないだろうか。
今後は、今までは回想としてあらわれていた男性教師の過去が、現在時点での大人たち人間関係のなかでも再現され、話が三重化するくらいになってゆくのではないかと予想するのだけど、どうなるだろうか。
●構えの二重化(二項への分離と、その上での相互浸透)は、過去のクドカンのドラマにも繰り返し出てきた。「木更津キャッツアイ」の「表」と「裏」、「マンハッタン・ラブストーリー」の観測者としてのマスターと、彼に観測される客たち、「タイガー&ドラゴン」の「落語」と「現実」など。
「ごめんね青春」には男性教師の「罪」とその「秘匿」という重しのような要素があり、これは「木更津…」に貼りついている「死」と同様、基本的に軽いコメディーであるはずの作品に、不必要とも思われる過剰なひっかかりと翳りを生じさせている。こういうところで人のこころに「ひっかかり」をつくるのも、まあ、テクニックなのだろうけど。