●先月、東京新聞にギャラリーαMの村瀬恭子展(「絵と、voi.3 村瀬恭子」)について書いた美術評が掲載された。この時、最初に書いて提出したものが難しすぎるということで、書き直したものが掲載された。一ヶ月たって改めて読み返してみると、書き直したバージョンの方が、たんにわかりやすく(易しく)なったというだけでなく、文章としてもよいように思う。書き直してよかった、と。
今後の自分に対して「基準」を示すという意味で、書き直す前のバージョンと、後のバージョンとを並べてここに置いておく。

村瀬恭子の作品では、まるで地層が露出した斜面のように、複数の異なる質をもつ空間が重なっているのがみられる。例えて言えば、セミの声で満たされた空間、雨あがりの土の匂いで満たされた空間、風による木の葉の振動で満たされた空間といった、ブロック化した質で満たされた空間が、水と油のように分離したまま、混じったり、遠近法的な秩序で配置されたりせず、併存している。
それら質のブロックは、堅い土のように層状になるのではなく、流動的にひしめき、互いが互いに対して亀裂であるような形で共存している。ある質の層は別の質の層に分断され、その層もまた他の層に分断される。この感触は、前の場面が唐突に次の場面に上書きされ、非連続的に展開しながらも、何か一つのまとまった物語を形成しているような夢のあり様に近い。
水が器を満たすようにセミの声が空間を満たす。この時、セミは外に向けて声を出すというより声の広がりで空間を聴覚化し、我々もセミ自身も共に声が満たす空間の内側へ引き入れられる。セミは木の上の小さな一点として存在しているというより、声の響く一帯に広がって存在しているかのようだ。我々はセミのつくりだす感覚の広がり内側にいるが、同時に、音を出すセミは目の前の木にとまっている小さな塊である。セミはそこにいるが、その存在は、身体の境界を超えて外ににじみ出ている。声の広がりこそがセミだとすれば、内側は空となりセミはその皮膚を境に内と外とで反転している。
村瀬の作品には人や植物が描かれている。しかし、空間の部分が質で満たされているのに対し、人は質に囲まれた余白としての「形」であり、内側は希薄で質量が感じられない。人の形はただ輪郭として、「空間ではない」という否定によってネガティブに現われている。
人が虚としてあり、空間の方が実のようにある。虚としての「形」が実として満たされた「質」のなかに挿入されることで、セミの内側と外側の反転と逆向きの反転が生じ、外が内になるように思う。形の外に広がる空間の質が、「感覚」となって人の内側を満たしていく。つまり、描かれた空間のもつ質は、人の外側にある環境というより、虚として描かれた人物の感覚(夢)が外在化した表現として感じられる。

村瀬恭子の作品には、夢を描いているかのような捉えがたさがあります。そこに人物が描かれる時、夢を見ている人と、その人が見ている夢とを同時に見ているような不思議な感覚を覚えます。眠る人が自分の夢のなかに入り込んでしまったのか、その人の体から夢がにじみ出て周囲を満たしているのか、夢の内側と外側とがひっくり返ってつながってしまったような感覚です。
その夢のような空間は、液体状になって人物を取り囲んでいます。空間は、何種類かの異なる波動のようなものとして、水と油のように混じり合わないままで、人物の周りを流れ、ひしめいて共存しています。波動の異なりは、波のようであったり、糸や毛並みのようであったりする独自の触覚的な筆致で描き分けられます。
空間といっても、三次元的、遠近法的に表されたものではありません。目で見る絵画でありながら触覚性を強く喚起する筆触によって表現されている空間は、蝉の声が辺りを満たす感覚や、ふさふさした毛並みが触れている肌が感じる感覚のように、ある特定の「感覚の塊」が占める領域のようにしてあり、そこには強くなったり弱くなったりする振動やリズムが感じられます。
それぞれが固有のリズムをもっている感覚の塊としての空間が、画面のなかに混じり合わずに複数存在することで、異なった音色をもつ打楽器たちが異なるリズムを刻みながら重ねられている時の、リズムとリズムの間で「うなり」が生じているような状態がつくられます。村瀬の作品には人物だけでなく植物も描かれていますが、植物はリズムとリズムの隙間を縫うように繁茂しています。
触覚的な筆致によってつくりだされる、うねるようなリズムの充溢のなかで、人物の部分はさらっとした薄い絵の具で描かれています。寄せては返す波のなか、そこだけが乾いたまま残った浜辺の砂のように人の姿が現れるのです。
あたかも、充溢するリズムを吸収するための緩衝地帯のようにして、人の形が描かれています。余白であるはずの空間が触覚的でリズムに満ち、物体である人の身体の方が空(くう)のようにあります。この反転的ともいえる関係が、村瀬の描く人物に、まるで夢で見られた人のような、独自の幽かな存在感を生んでいると考えられます。