BBC製作の「THE LIFE OF BIRDS」というドキャメンタリーのシリーズは十巻まであるのだが、次の展開が気になるようなドラマシリーズではないので先を急ぐことなく、何度も同じところを繰り返し再生したり、スローにしたり、ストップさせたりして、じっくり観ている。ハヤブサが空中でハトを捕獲するところなど、何度も何度も繰り返して観た。で、それを観ながら、同時に並行してドゥルーズ=ガタリの「リトルネロについて」を読むとすごく面白い。まるで、今まで映像と音とで展開されていたことが、本では、文字で概念として語り直されているみたいだし、本で概念として語られていたことが、今度はテレビ画面で映像と音とで示されているかのようだ。それに、久しぶりに読み返すドゥルーズ=ガタリはやたらと面白い。「領土」という概念の面白さを、鳥の生態を観ることで実感する。
●引用。《なぜなら、拍子とは規則的、不規則的の別を問わず、必ずコード化された形式を前提とするものであり、この形式の測定単位もまた、仮に変化することがあるとしても、結局は疎通性のない環境内にとどまるのに対し、リズムのほうは常にコード変換の状態に置かれた〈不等なもの〉、あるいは〈共通尺度をもたないもの〉だからである。拍子は断定的だが、リズムは批判的(クリティカル)であり、危機的(クリティカル)な瞬間を結びつけたり、環境から環境への移行にみずから結びついたりする。リズムは等質な時-空の中で作用するのではなく異質性のブロックを重ねながら作用するのである。「真に活発な複数の瞬間の結合(リズム)は、行為の遂行される平面とは異なる平面上で実現されるものだ」と述べるとき、バシュラールは正しい。リズムが、リズム化されるものと同じ平面をもつことはありえない。つまり行為は特定の環境の中でおこなわれるが、リズムのほうは二つの環境のあいだ、あるいは、〈環境のあいだ〉のさらにそのあいだに生じるのだ。》「リトルネロについて」
鳥の話とはまた別だが、「終の住処」(磯崎憲一郎)を読んでいる時に感じる時間の感覚、いや、それに限らず、磯崎さんの小説の最良の部分を読んでいる時に感じる時間というのは、ある部分を引用してそれを分析するというやり方ではとらえがたいもので、それはここで言われているリズムということなのではないかと思った。
●そしてまた、《真に活発な複数の瞬間の結合(リズム)は、行為の遂行される平面とは異なる平面上で実現されるものだ》、《リズムが、リズム化されるものと同じ平面をもつことはありえない》という言葉は、芸術作品の根本的な抽象性というものを示してもいると思う。作品においては、リテラルな次元で書かれること(描かれるもの)の内容の次元(行為が遂行される次元)とは「別の次元」に発生するもの(真に活発な複数の瞬間の結合=リズム)こそが重要なのだ。だからそれは、要約やあらすじでは消えてしまうのだ。読み取り得る内容、具体的な場面の連鎖、現前的な感覚等々を通して感知される、非現前的な感覚、見ることも触れることも出来ない部分で「動いているもの」。真に読み取られ、感じらとられるべきなのは、この次元であろう。
ドゥルーズ=ガタリの言う「領土」というのも、具体的な空間のことではなく、環境が脱コード化された余白のような潜在的次元で生まれるものだ。具体的な空間が仕切られて、そこに「私のものだ」と立て札が立てられるのではなく、立て札を立てるという行為が、環境からのズレを生じさせ、領土(領土化する力)という潜在的な次元を発生させる。《署名や固有名とは、すでに形成された主体の符号ではなく、みずから領域や領土を形成する符号である。署名は一個の人間を標示するものではなく、領域を形成する無根拠な行為である。》領土は、それを形成しようとする立て札、ポスター、固有名等の「指標を示す」という行為からはじまる。だからこそ、「領土(領土化する力)」は、常に美学的、芸術的な行為と結びついていて、それと切り離すことができない。《環境の諸機能を労働の形で組織化するのも、カオスの諸力を結びつけて儀式と宗教に、そして大地の諸力に転化させるのも、領土化の力のもつ美学的要因なのである。》だから、芸術は人間にだけあるものではなく、テリトリーをもつ動物にはすべてに、領土化をめぐる美学的なものの作動(鳥の歌、羽根の色など)が認められる。《領土は芸術がもたらす効果だということになるだろう》《芸術は人間を待たずにはじまる》。
ドゥルーズ=ガタリは、大地と結びつく領土化する力と同時にはたらく、宇宙の力と結びつく脱領土化する力についても、産卵のため水源へ戻る鮭や、太陽や磁極を頼りに飛ぶ渡り鳥などを例に挙げて書いている。
《実際、ここに見られるのは、もはや環境の運動でも、環境のリズムでもない。はるかに広汎な運動に、いまや宇宙が取り込まれているのだ。位置決定のメカニズムが非常に精密であることに変わりはない。しかし、位置決定そのものは宇宙的なものに変化している。それは大地の力において結集され、領土化した力ではなく、脱領土化した宇宙の、見出され、解き放たれた力である。》
とはいえ、領土化する力と脱領土化する力は、対立するものでも矛盾するものでもなく、それは常に同時に働いているものだ。《領土は相対的な、その場での脱領土化によってたえず貫かれ、そこでは内部的アレンジメントから相互的アレンジメントに移行するにあたって領土を離れる必要もなければ、宇宙と合体するにあたってアレンジメントから離脱する必要もないことを認めなければならない。領土は、いつも脱領土化の途上にある。》《まったく同じ「もの」が、一方では領土化した機能となって内部的アレンジメントに組み込まれ、もう一方では自立的な、あるいは脱領土化したアレンジメントとして、つまり相互的アレンジメントとしてあらわれるのである。》
こういう部分を読んでいると、ここでもまた、「絵画」という磯崎さんの特異な短編を思い出さずにはいられない。