●目が覚めたらよく晴れていた。天気予報では明日以降は愚図つくと言う。しかも明日は夏至で、もうこれからはどんどん日が短くなってしまうのだ(ぼくは太陽が出てさえいれば幸せという人間なので、日が短くなると思うだけで少し憂鬱になる)。こんな日に出かけない手はない。しかし、睡眠のリズムがぐちゃぐちゃで、目覚めた時は既に昼過ぎで、これから出かけても遠出は無理だ。少し考えて、八王子に住み始めて二十年以上になるのに一度も乗ったことのない、八高線に乗ってみようと思いついた。八高線は八王子から埼玉を通って、群馬県の高崎まで行く路線だが、事実上、電化されている八王子-高麗川間と、電化されていない高麗川-高崎間は分断されている。高麗川(埼玉県)までの電車は、一時間に一本か二本はあるけど、それより先は本数もぐっと減ってしまう。出足が遅かったので、今日はとりあえず高麗川までで我慢することにした(本当なら、高麗川-高崎間の方が面白そうなのだが)。
八王子から南へ行くのが横浜線で、北へ行くのが八高線。八王子から東神奈川へ行く横浜線の途中で分岐して、橋本から茅ヶ崎へ行くのが相模線で、これはぼくの帰省のルートなのでもう繰り返し何度も乗っている。この二つの路線はひたすら平坦な神奈川県を横断して海岸近くまで行くのだが、何度も乗っているということもあるけど、この平坦さはそれを差し引いても退屈を感じざるを得ないもので(風景が典型的にファスト風土的だし)、しかしこの退屈さこそが、相模平野のだだっ広さを感じさせるものでもある。実家に住んでいた頃は、かなり風景の変化の豊かな東海道線を主に使っていたので、大学の入学手続きのために相模線にほとんどはじめて乗った時、果てもなくつづくようなとりつくしまもない平坦さに途方に暮れ、うんざりもした感じを、今でも相模線に乗る度に思い出す。北へ向かう八高線も、基本的に平坦であることに変わりはないのだが、多摩地区は小さな山が連なっているところでもあり、小さな起伏が複雑にあって、それが風景のニュアンスに変化を与えていて面白い。八王子の次の駅は「北八王子」だ(ぼくが住んでいるのは「西八王子」)。八王子に二十年以上住んでいるのに、八王子の北側には行ったことがなかったのだ。
しかしそれもすぐに過ぎ去って、埼玉に入ると、神奈川とあまり変わらない平坦な風景となる。とはいえ、神奈川と埼玉とでは微妙に感触が違っていて、その違いはどこからくるのだろうか、などと考えて窓の外を見ているととても面白い。外は光が強いし緑も深く、川も流れている。川を渡る電車の窓の外を見ることは、なぜこんなに気持ちがいいのだろうか。どこにでもあるようでいて、しかしはじめて見る風景はそれなりに物珍しくもあり、乗客の感じなどもやはり相模線にちょっと似ているのだなあなどと思ったりもして、途中の駅で乗ってきて目の前に座った脱力系でジャージ姿の太ったお兄ちゃんが、誰かに似ているのだがそれが誰なのかなかなか思いつかず、しばらくして、あ、東浩紀だ、と思いついたりもして、そういうすべてがいちいち面白い。
高麗川に着く。下りの電車まで50分くらいあるので、少し散歩してみることにした。駅名の由来だと思われる高麗川神社というのがあるみたいなので、そこまで行ってみることにした。駅から少し歩くと、大きな看板に平仮名で「はんしん」と書かれていて、埼玉でなぜ阪神なのかと思ったら、「飯能信用金庫」のことだった。あたりをつけてだいたいあの辺りだろうと歩いて行くと、遠くに明らかに神社のものと思われる緑の塊があり、そこから子供たちが遊んでいるような声が聞こえもするのだが、見えるのに、そちらの方向へと繋がっている道がなかなか見つからず、その緑の塊のまわりを遠巻きにぐるっと一周するようにして、ようやくそこへと至る道を見つけた。高麗川神社は、どこにでもあるような小さな神社だったけど、ユリノキタブノキのとても立派な巨木があった。あまりにぐるぐる回ったので駅の方向が分からなくなって、迷いかけたのだが、車は沢山通っているのに人通りがほとんどなく、道を訪ねることもできないまま、ただやみくもに歩き続けた。駅を下りた時に遠くに見えたショッピングセンターの看板をみつけて、ようやく方角を掴めて、電車の時間ギリギリくらいで駅に戻った。
帰りの電車のなかに、一人でずっと喋りつづけているおっさんがいた。「オレは冬は革ジャンで夏は麻を着る。麻は涼しいだろ。そしたらクーラーなんていらない。夏にジーパン履くやつなんて信じられん。」「健康のためにはサーモンと野菜がいいんだ。特にトマトだな。肉なんか喰ってる奴は長生きできない。医者のいうことを聞かないような奴は早死にして当然だ」「大学なんか出たって、一流の企業に就職できなきゃ駄目だ。それも五本指にはいるような企業だ。五本だ、六番目じゃ駄目だ、五本の指に入らなきゃ意味ないんだ。」おっさんの言っていることは確かに独断的ではあるが、この程度に独断的なおっさんなどいくらでもいる。だから言っていることそのものは少しもおかしくはない。ただ、たった一人で相手がないまま、しかも休むことなく延々と喋っているのがおかしい。おっさんの言葉を聞いていると、人が喋ることのほとんどが自己主張で、しかもその主張のほとんどが受け売りだということに気づき、それは少し悲しいことだ。自己主張の代わりに、みんなもう少し描写をすればいいのに。
●今度は是非、海の方へ向かって行きたい。