ガタリの『カオスモーズ』が面白い。他のガタリの本より(は)分かり易い。図書館から借りたのだが手元に置いておきたいと思ってアマゾンを検索したら七千円近い値がついていた。返却まで気になる所をできるだけメモをとっておこう。以下は、一章の「主体感の生産をめぐって」からの引用。
≪主体は、伝統的な観点からすると、個体化をつきつめたところに生じる究極の本質であり、内省以前の空っぽな状態で純粋に世界を把握し、感性と表現性の焦点となり、さまざまな意識の状態を統合するものと考えられてきました。それに対し主体感の場合には、むしろ志向性確立の審級が強調されます。そこで必要になるのは主体と客体の関係をその真ん中からとらえ、表現の審級(あるいはパースの三項モデルにおける解釈内容)を前面に出すことです。ならば当然、あらためて内容について問うてみることが必要になる。内容は表現の存在論的な質に共存性を与えることで主体感を分有します。内容と表現が入れ替わる可逆性にこそ、私が「実存化の機能」と呼ぶものはあるのです。だから言表行為の実質が、表現と内容の対よりも優位に立つという点を、最初におさえる必要も出てくるわけです。≫
≪主体と客体の融合は現象学派の哲学者が追求した与件ですが、彼らによって明らかにされたのが、志向性はその対象から切り離せないし、主体-客体の言説関係が成り立つよりも前の段階に属するというものでした。≫
≪そこで必要になるのは多元論的な方法に即して実質の概念を粉砕し、記号学および記号論一般の領域だけでなく、生物学、科学技術、美的創造など、言語外にある人間不在の領域にも表現の実質という範疇を拡大していくことでしょう。そういうことであれば言表行為のアレンジメントも、記号論的機能域に特有の問題ではなくなり、相互に異質な表現の質量が集まった集合を横切っていくようになるでしょう。要するに横断性ということですが、それによって結びあわされるのは、ある部分では言語的でも、別の部分では機械状を呈し、もう一度イェルムスレウの言葉を借りるなら「記号的形相のない質料」をもとに展開することもある、さまざまな言表行為の実質です。機械状の主体感、主体化の機械状アレンジメントは、これら種々雑多な部分的言表行為を一つに凝集させ、主体-客体関係のいわば誕生以前にその近傍で成立します。そのうえ機械状の主体感は集合的特性をもち、多成分的であるため、まさに機械状多様体たりえているのです。≫
≪パトス的で、主体-客体関係の手前にある主体感があくまでエネルギー論的時空間の座標系を経て現勢化し、言語と多数多様な媒介からなる世界にあらわれることは確かです。しかし主体感生産の原動力をとらえることができるようになりたければ、主体感の生産を介して主体-客体関係の基礎となる部分で主体による疑似-媒介として成立する疑似-言説作用、つまり言説作用の転用を理解するしかないのです。
このようにパトス的で、主体化の全様態を成り立たせる根の部分で起こった主体化の動きは、資本主義の合理主義的主体感がその体系的回避を目指す関係で、どうしても隠蔽されてしまいます。科学を構築するには、言説を成立させる鎖の環の一部が意味作用の粋をはずれることによってのみ表現にたどりつく主体化の要因を、とりあえず括弧に入れる必要があるからです。≫
≪ここに逆説があるとしたら、それはパトス的主体感が言説作用の連関から常に排除されるのに対し、言説作用の演算子は主としてパトス的主体感にその基礎を置いている点に求められるでしょう。言表行為のアレンジメントが実存を生み出す機能は、言説作用の連鎖を利用して反復の、あるいは強度的持続のシステムを作り上げることで成り立つわけですが、そのようなシステムの両極には領土化した実存の領土と、脱領土化した非物体の宇宙---つまり個体発生的と形容しうる、メタ心理学的な二つの関数---があるのです。参照的価値の宇宙が、機械の系統流に接続した表現の機械に独自の組成を与えます。複合的なリトルネロが、単なる領土化のリトルネロを乗り越え、参照的価値の宇宙にそなわった特異な共存性に変化をもたらします(たとえば全音階にもとづく和声的共鳴をパトス的にとらえれば、多声音楽がもつ共存性の「背景」を展開することができるようになり、同様にして数とアルゴリズムが築きうる連鎖をとらえるなら、今度は数学的観点の「背景」を展開することが可能になる)。こうして言表行為のアレンジメントに与えられた抽象機械の共存性は、実存的領土化が起こるさまざまな部分的水準を段々に重ね、秩序が生まれたところに位置づけられることになります。そればかりか複合的リトルネロは、現勢化した言説作用の機能粋と、非言説的な潜在力の宇宙とをつなぐインターフェースとして機能するのです。≫