●引用。メモ。ブログ『ソウル・ハンターズ』を読む、「経験上、自己であり他者でもある身体(第3章)62‐70頁」より。一をつくるには二が必要、「私でなく、私でなくもない」ものとしてのわたし。
https://ameblo.jp/soulhunters/entry-12272887644.html
《言い換えれば、ユカギールとラカンにとって、主体が主体になるためには、その可能性の条件として、他者性を内面化しなければならないのである。ユカギールにとって、主体が同一化せねばならない他者とは、鏡の中の姿ではなく、亡くなった親戚のアイビ(影)という形態をとる。しかし、アナロジーの肝要なポイントとは、双方の説明では、一を作るのには二が必要であるということだ。つまり、主体が自らを認識するのは、他者の中で/他者として自分自身を「失う」瞬間だけである。それには、以下のようなメカニズムが見られる。主体は、他者のイメージに同一化したり、他者のイメージを取り込んだりすることによって、切り離された存在として自分自身に対して自分自身を表象し始める。そのことが、ひいては、自己イメージになる。ここには、逆説的状況がある。主体は、自己としての自分自身の感覚を得るためには、自己―客体化もしくは自己―疎外を経験せねばならない。ディロンは以下のように述べる。「私を私自身から疎外し、私を私自身へと引き合わせてくれるのが、他者である。他者とは、私自身に対する外部のパースペクティヴの座のことである」。》
《言い換えれば、主体とその「イマーゴ」もしくは「アイビ」との関係が、私が「私でなく、私でなくもない」と特徴づけた、「二重否定の領域」に住まうようになる。》
《主体は、その鏡像的な片割れに対して、魅了することや遊びに満ちた相互作用から、拒否することや攻撃することにまでわたって、様々な相反する態度を示すようになる。》
《ユカギールの人々は、対称性に宇宙論的に取りつかれているし、鏡の反転、そっくりさん、ドッペルゲンガ―、影など――これらすべてが自己と世界との本質的な類似性を強調している――について、ユカギールには数多くの考えがある。そして、そのことは妥当だろうと、私は思っている。》
《しかし、このことは、「自然」や、自己と世界との間にあるあらゆる差異と分割が乗り越えられたかつての存在状況へと回帰するためのユカギールによる試みとして、ロマンチックな観点から理解されるべきではない。ユカギールは、実際には、いかなる絶対的な意味合いでも、自分自身を周囲に投げうつことがないよう、ものすごく注意を払っている。実際に、私は、狩猟者の「二重の観点」が、いかに自己の溶解に対する防衛メカニズムになっているのかを、後ほど記述するつもりだ。ユカギールにとって、ミメーシス的な宇宙は、現実の様々な諸次元が、他者の終わりなき複製あるいは反映であると感じられている。》
《ユカギールが、ラカンと同じくらい、個人の主体の発達と成長に対して言語の重要性を強調していることである。例えば、ユカギールは、子どもが話せるようにならないうちは、完全に「生きている」ことにはならないという。言語の獲得以前は、「子どもほとんどその影のようなものである」と。このことが意味するのは、子どもは自分自身であるというよりも、そのアイビ、つまり死んだ親戚だということだ。言い換えれば、ユカギールは、言語がなければ、主体とその鏡像的な片割れの関係が閉じていて、循環的にならざるを得ず、「第三者」とのいかなる関係、つまり社会関係は成立しないとしている点で、ラカンに同意しているように思われる。》
《そうではあるのだけれども、ユカギールは、世界、とりわけ森の世界との直に触れるような相互作用にとても重きを置いている。(…)物語は、知識の源泉として、決して十分ではない。覚醒時の生活と夢の中で直に得られた、経験に基づいた知識に最も価値があると見なされている。念のために言えば、主体自身が経験したものだけが、知識であると見なされる。実際のところ、このことが意味するのは、ユカギールにとっての「知ること」は、多くの場合、もともと言語によってつくられた、自己と世界との境界を超えることだということである。》