●ギャラリーαМの村瀬恭子、とてもよかった。実は実物を観るのははじめてで、実物を観てがっかりとかだったら嫌だなあと怖れていたのだけど、よかった。
●何かの内側にいながら、同時にそれを外から見ている。例えば、水に浸かり流れに身を任せながら、流されている自分を外から見ているというような。そういう状態を絵に描くとこうなるのか。
しかしその波立つものはたんなる水の流れではない。それは空間そのものの流れであり、異質な空間のぶつかり合いでもある。その流れは、裏返ったり、表返ったりしている。空間にはいつくも亀裂が走り、その裂け目から裏にあったものが表に現れ、表にあるものが裏へと回り込んだりしている。図と地が反転しているというより、空間の裏と表が、あるいは表面と穴とが、互いに裏返り合っている。
亀裂によって区切られた複数の異なる歪みをみせる空間たちは、各々のテクスチャーによって満たされている。例えて言えば、ある空間はセミの声で満たされ、別の空間は雨上がりの土のにおいで満たされ、また別の空間は風に揺れる木の葉で満たされている、というように。それぞれの空間が波立っているのと同時に、複数の空間たちが波立つようにひしめき合い、ぶつかり合っている。
(空間を満たしているものは視覚的には、粒子のようであり、波のようであり、糸のようであり、毛並みのようであり、タッチのようであり、凹凸のようである。)
そこに人の形が見える。それを「わたし」が外から見ている以上、その人の形をしたものがわたしであるはずがない。しかし同時に、それを見ているのが「わたし」である以上、それはわたしだとしか考えられない。
その形は亀裂の隙間に、あるいは複数の亀裂を貫くように存在している。亀裂によって区切られた空間たちが、各々の固有のテクスチャーで満たされているのに対し、人の形はくり抜かれた空のようにある。人の形は、「〜ではない(満たされていない)」という否定によってのみ定義されるかのようだ。人の形はあくまで「形」としてあり、重みも厚みもなくて、何ものかに満たされ、波打ち、裏返るように動いている空間たち「ではない」ことでネガティブに現れている。ただし、空間と人の形を媒介するような「流れる髪」の部分を除いて(そして、植物や花は、空間の亀裂に沿うように繁茂する)。あるいは、そのネガティブに示される「人の形」によって、異なる空間たちが仮り留めされるように繋がれているとも言える。
(空間は実としてあり、人の形は虚としてあるのだが、実として人の形(身体)の外側にある空間のテクスチャーこそが、反転して、身体の内実そのもの(内側)の現れであるようにも見える。)
人は、質量はないが「形」としてある。そしてそれは、「そこ」にあることでわたしから切り離されているが、同時に、「わたし」でしかあり得ないものであるかのようにそこにある。