●50年代から60年代はじめ頃までの熊谷守一の色彩の強烈さはどこからくるのだろうか。勿論絵画は、光りの反射によって「見える」のだけど、クマガイの色彩は、それ自体が発光しているというか、どこか得体のしれない光源が内蔵されているかのようだ。クマガイは日光の画家ではない。晩年のクマガイは、昼間は庭を歩き回ったり、昼寝したりしていて、皆が寝静まった夜中に、電燈の光りの下で制作した。つまり、昼間、庭で見たものを、夜中に描いた。そこでは、色彩も形態も記憶のなかから浮かびあがってくるものとなる。このことは何か関係があるのだろうか。
●クマガイが絶妙に日本的な趣味を回避していること。たしかに、クマガイの色彩や形態の趣味は、日本画にその多くを負っている。しかし、それが、板の上に厚塗りの油絵の具で、そしてあの独自の小さなサイズの絵としてあらわれる時、それはまったく違った感触となる。強いて例えれば、ゴッホが模写した浮世絵のような、ちょっと勘違いした(空気を読み違えた)日本趣味のようなものになる。
例えば岡田謙三は、抽象表現主義以降の(つまり当時最先端の)形式に、上手く日本的な情緒をブレンドすることで、アメリカで評価された。そしてその評価が日本に輸入される。このような国際派は現在も大勢いるだろう。対してクマガイは日本の中で、いかにも東洋的な隠居生活をしているかのようなイメージに守られつつも、より徹底して日本的な磁力から作品が切り離されている。
日本の洋画には、まさに「日本の洋画」としか言えないような独自の感触がある。(それを完成させたのは安井曾太郎とか梅原龍三郎とかなのだろうが。)例えば、須田国太郎のような、インテリでヴェネチア派の研究者でもあり、海外生活も長いような画家でさえ、その磁力から自由ではない。あるいは、最晩年の藤田嗣治ならば、その磁力から脱し得たと言えるかもしれない。しかしその作品は、ぼくには、ちょっと直視するのが辛いくらいに悲惨なものに思われる。クマガイは、学生時代の習作的な作品をのぞけば、ほぼ一貫して「日本の洋画」という磁力から自由だ。自由だ、というのは、例えば晩年のフジタのようにそこから遠く離れているということではなく(フジタは自由ではないからこそ、遠く離れなければならなかった)、きわめて近くにいながらも、決定的に異なっている。例えば、30年代の厚塗りの風景画など、絵の具の厚さやタッチの感じも、色彩の趣味の渋さも、あきらかに日本的な趣味だと思えるのに、作品は何故か「日本の洋画」には見えない。それは「日本の洋画(日本近代絵画)」ではなく、たんにモダンな絵なのだ。(おそらくクマガイは、自分の仲間や二科展の絵くらいの狭いサークルの作品しか見ていないはずだし、西洋の近代絵画への興味などほとんどなかった筈なのにも関わらず、そうなのだ。)
●晩年のクマガイモリカズ様式を可能にした決定的なものは、やはりあの輪郭線だろう。輪郭線のおかげで、位置も光源ももたないような広がりとしての色彩を作品に導入することが可能になったのだと思われる。クマガイの、色彩をくっきりと切り分ける輪郭線は、描かれた線ではなく、残された線だ。つまり、塗り残された部分が結果として線に見える。これは、マティスがセザンヌの塗り残された部分から受け取り、独自のものとして発展させた、ブランクとして機能するネガティブな線と、ほぼ同じ機能をもつ。(クマガイの油絵が日本画に限りなく近付きながらも、決定的に異なっているのは、板の上に厚く塗られた油絵の具の質感だけでなく、このブランクとして機能する線のためなのだ。これを、セザンヌもマティスもニューマンもステラも参照することなく、独自に発見してしまうのだ。)
しかしこの塗り残された線を、いったいどうやって残していたのかが、いくら作品を観てもよく分らないのだ。タッチの方向や使われた筆の太さからすると、「線」となる部分を器用に塗り残すのはほとんど不可能であるように思われる。では、色が塗られた後から、棒状のものの先端で引っ掻いて絵の具が落とされたのだろうか。しかし、塗り残された部分には、下地に朱色の鉛筆や絵の具で引かれたアタリの線がきれいに残っているし、正確にその部分が塗り残されているのをみると、塗った後で削りとられたわけでもないようだ。マスキングテープを使うということも考えられるが、マスキングテープでこれほどに自在な曲線が作れるものなのだろうか。
ひとつ思いついたのは、凧糸のような太めの糸を、アタリの線の上に貼付けて、そこに絵の具がつかないようにしてから絵の具を塗って、その後にそれを剥がす、というやり方だ。しかしそれで本当に上手くいくのかどうかは、やってみなければ分らないけど。
マスキングテープを使って「塗り残された線」をつくるというのは、50年代60年代のアメリカのフォーマルな絵画でさかんに使われていた技法で、このことからも、アメリカ型フォーマリズムの絵画とクマガイとの近さを感じる。実際、60年代中頃に描かれた、身震いする程に渋い鳥の絵などは、最良の時期のフランク・ステラを想起させる。しかし、美術史的な位置付けはともかく、作品の質や面白さ、複雑さという点では、ずっとクマガイの方が上だとぼくは思う。
●例えば色価というのがある。これだけの面積のこの黄色は、どれだけの面積のあの緑と釣り合うのか、というようなことで、マティスなどは、遠近法によってではなく、このような色のバランス(色価の配置)によって空間をつくり、動かす。しかし、これだけの面積の黄色と、これだけの面積の緑とが「釣り合う」というのはあくまで画面全体として観た時のことで、だから、画面全体としては、この画面左の黄色い色面が、画面右側の緑の色面より後ろ(奥)にあるように見えても、黄色の部分の周辺にだけ注目すると、黄色こそが画面の一番手前に出て来たりする。このような、色彩のもっている「位置」の不安定さこそが、マティスの絵を動かし、複雑にしてもいる。どの色(どの部分)に注目して観ているかによって、画面(空間)の様相が変わる、複数の異なる層が分離しつつ重なったような画面も可能になる。しかし、クマガイの色彩は、このようなものとも異なるように思われる。
マティスでは、注目する部分によって空間の様相がかわり、そして、それら複数の空間に共通するような基底的な空間がないままで、複数の様相が重ねられるのだが、とはいえ、それぞれの空間は、最低限、三次元的な秩序の範囲内にあるように思われる。そしてなにより、そこには常に重力が感じられる。そのことは、マティスが決して抽象画を描かず、ぎりぎりのところで現実空間との繋がりを保っていることと、深く関係するように思われる。要するにマティスは物を「見ながら」描いている。最後の根拠はそこにある。しかしクマガイにおいて色彩は、三次元の空間を脅かす、ある強さとして経験される。クマガイの絵のイメージを支える空間は、現実のものであるよりも記憶の地平であるようだ。例えば、61年に描かれた「ほたるぶくろ」の、コバルトグリーンのような色のひろがりから浮かびあがる、紫のほたるぶくろ。これは、コバルトグリーンのひろがりのなかに、紫の裂け目が露呈されたようでもあり、紫の連なりの与える衝撃によって、コバルトグリーンの広がりがひらかれたようでもある。そしてそこにちょこんと加えられる蜂の黒と黄色。この黒が、画面に最低限のまとまりを生んでいるとも言えるが、その黒い蜂の首のごく小さな面積の黄色は、ここに目をやった途端にこの画面全体がくるっと裏返ってしまうかのように、目のなかで広がり、視線を支配する。このような色彩の経験には、空間的な拠り所がほとんどない。この不安定で非現実的な色彩の経験を、ぎりぎりに現実的な認知に結びつけているのは、ただ、明解な輪郭線のみであるように思う。明快な輪郭線によって辛うじて、現実的な場所を得ることのない不確定な色彩の経験が、可能になっているかのようなのだ。
●クマガイの書や日本画については、基本的には、求められたから描いた、あるいは、お金になるから描いた、というようなものだと思う。とはいえ、なかには良い作品も結構ある。
●ここのところ陽射しが春っぽかったのだが、今日は風が強くて塵が飛ばされたせいか、空気が澄んで輪郭のくっきり立つような冬の光りで、空も冬の冴えた色だった。高い位置から小学校のグランドを見下ろす道を歩いていると、大勢の子供が青と赤の服に別れて走り回っていて、一塊りになりながらも、青と赤とが入り乱れ、混じり方がかわってゆくのを面白がって見ていた。でも、一体何をしているのかさっぱり分らなかったのだが、しばらくして、どうやらサッカーらしいと気づいた。下手なサッカーは、皆がボールに向かってかたまって動いて行くので、一塊りの集団の、青と赤とが入り乱れてゆくような動きになるのだった。サッカーとしてはダメだけど、妙に面白い動きだった。