●過去の日記をみたら、熊谷守一についてけっこう面白いことを書いていたので、メモとして引用しておく。08/02/24(日)と 08/02/26(火)と 08/02/23(土)の日記から。埼玉県立近代美術館で観た「天賦の色彩 究極のかたち」についての感想の一部。

マティスでは、注目する部分によって空間の様相がかわり、そして、それら複数の空間に共通するような基底的な空間がないままで、複数の様相が重ねられるのだが、とはいえ、それぞれの空間は、最低限、三次元的な秩序の範囲内にあるように思われる。そしてなにより、そこには常に重力が感じられる。そのことは、マティスが決して抽象画を描かず、ぎりぎりのところで現実空間との繋がりを保っていることと、深く関係するように思われる。要するにマティスは物を「見ながら」描いている。最後の根拠はそこにある。しかしクマガイにおいて色彩は、三次元の空間を脅かす、ある強さとして経験される。クマガイの絵のイメージを支える空間は、現実のものであるよりも記憶の地平であるようだ。例えば、61年に描かれた「ほたるぶくろ」の、コバルトグリーンのような色のひろがりから浮かびあがる、紫のほたるぶくろ。これは、コバルトグリーンのひろがりのなかに、紫の裂け目が露呈されたようでもあり、紫の連なりの与える衝撃によって、コバルトグリーンの広がりがひらかれたようでもある。そしてそこにちょこんと加えられる蜂の黒と黄色。この黒が、画面に最低限のまとまりを生んでいるとも言えるが、その黒い蜂の首のごく小さな面積の黄色は、ここに目をやった途端にこの画面全体がくるっと裏返ってしまうかのように、目のなかで広がり、視線を支配する。このような色彩の経験には、空間的な拠り所がほとんどない。この不安定で非現実的な色彩の経験を、ぎりぎりに現実的な認知に結びつけているのは、ただ、明解な輪郭線のみであるように思う。明快な輪郭線によって辛うじて、現実的な場所を得ることのない不確定な色彩の経験が、可能になっているかのようなのだ。

美術作品がある空間に展示される時、そこにはことなる二種類の空間が発生する。作品が置かれることで、その空間全体に及ぼす影響と、その作品そのものが内包する(作品そのものの作用の内にある)空間だ。この二つを厳密に分けることは難しいが、しかし、混同することは出来ない。
ある作品は、ある特定の空間のなかでつくられ、特定の空間に設置される。その時、作品は、それがつくられた空間を呼吸するようにそのの影響を受けるだろう。そして作品は、それが設置される空間の影響も受けるし、その空間に影響を与えもする。しかしそれと、作品そのもののもつ空間性とは一致しない。たとえはジャコメッティの彫刻は、それが内包する空間はそれほど大きくはないが、それによって影響される空間はとても大きい。ジャコメッティの小さな彫刻が一点置かれるだけで、美術館の展示室全体の空気の張りが変化する。(念のために書くが、彫刻作品において、その作品が内包する空間の大きさとは、その作品の物理的な大きさのことではない。)
絵画の場合、フォーマットがある程度決まっているので、描かれた空間の大きさと、そのフレームの物理的な大きさとの分裂として、それは比較的みえやすい。(絵画の場合、そのフレームの物理的な大きさが、ほぼ、作品が現実的な空間に与える影響の大きさを左右するとはいうものの、これも厳密には一致するものではない。)描かれた空間の大きさとは、別に広大な風景が描かれているから空間が大きいとか、そういうことではない。その作品が、作品として内包し、動かしている空間のふところの深さのようなもののことだ。(だから、描かれた-表象された空間の大きさと、描かれた-作用する空間の大きさとの間にも、分裂がある。広大な風景を描いた、空間の小さい絵もある。)
その作品で問題にされている空間的スケールと、その作品が実際にもっている大きさとは必ずしも一致しないし、一致することが良いことでもない。例えば、バーネット・ニューマンの作品は、作品が問題とする空間的スケールと、実際の物理的なフレームの大きさとが厳密に一致することが求められている。しかしそれは、ニューマンの作品としてはそれが必要だったということであり、その一致は決して一般化されるものではない。(というか、そう簡単には一致しないということが、ニューマンの作品を振動させている。)
シアトリカルでミニマルな美術作品がつまらないのは、その作品が、現実的な空間へと与える影響や効果のみを問題としていて(それが「表現」だと思っていて)、それと、その作品そのものに内包される空間との分裂という、美術作品のあり様の根本的な問題が見過ごされているからだ。(本当は、作品をつくるということは、後者を「発生させる」ということなのだ。)要するに、ニューマンの作品や、あるいはジャッドの作品の、ギリギリのところで成立しているの特異な達成を、安易に一般的なものへと流用してしまっている。もっと言えば、作品というものの一番重要なキモの部分を理解していない。(当時それは、「イリュージョンの廃止」という名で問題化され、モダニズムの公理としては、それが絵画の進歩の一つだとさえされていた。公的な「問題」として一般化されることの恐ろしさ。)
熊谷守一のきわめて小さなサイズの作品を観ていて強烈に感じるのは、その物理的なサイズのつつましさと、そこで扱われている空間の捉えどころのなさとの、恐ろしいまでの分離だ。美術館のなかを歩いていて、ああ絵がかかっているなあと思う時にみている、建築空間のなかでの作品の物理的なスケール感と、その絵に近寄って、一枚一枚の「その絵」を観ている時に観ているイメージのもつ底抜けのスケール感とが、まったく一致しない。もっといえば、熊谷守一の絵は、物理的な大きさを持たない絵であるかのようなのだ。昆虫や植物といった小さなものを描いた、ごく小さなサイズの絵が、物の大きさやパースベクティブといったものを見失ってしまうような「大きさのないイメージ」として迫って来る。
子供の頃に風邪で寝込んでいる時、ぼくはよく、自分の口のなかには到底入り切らないような大きなものが、無理矢理口のなかにはいってきて、それがさらにもこもこと巨大化して、自分の身体が内側からひっくりかえされてしまうような、妄想というか、幻覚的な感覚に苦しまされた。熊谷守一の絵を観るときの感覚は、どこかでその時の感覚と繋がっているようにも思われる。

有名な「ヤキバノカエリ」は、晩年の様式でありながらも、初期の作品に近い感触をもつ。この作品のキモは要するに、画面のほぼ中心に位置する骨壺の白が、現実ではないかのような異様な昏い輝きをみせる点にあろう。この白を輝かせるために、周囲の色、主にくすんだピンクというのか、白を混ぜられた赤紫というのか、そのような色の調子が調整されている。つまり、初期作品において、闇からロウソクの光によって一瞬ぼうっと浮かび出すものが、ここでは、沈んだピンクの色調のなかから、異様な白として浮かびあがる。絵の構造としては、むしろ単調なものとも言えるのだが、それでもこの白のもつ妖気は、ただごとではないように感じられる。