●今日、とつぜん、いままでの「Plants」とは違った、もしかしたら新しいシリーズになり得るかもしれない作品が三点描けてしまった。もし、この感じが今後も継続、発展可能であれば、新シリーズ「geography」(何のひねりもない、そのまんまのタイトルだけど)の、大元の作品となるはず(なって欲しい)。作品というより、これから開かれるかもしれない可能性を示してくれるエスキースのような小品が、手を動かすうちにぽろっと出てきた、ということなのだが。
最近つくづく思うのは画家としてのぼくにとっての主題(関心)はおそらく天気と植物と地形で、九十年代終わり頃には「天気図」というシリーズをつくっていて、ここ六、七年くらいはずっと「Plants」で、そしてようやく、地形にまでたどり着けた(かもしれない)ということになる。
最近のぼくの作品は、どんどんとスカスカになってゆく傾向にあり、今日描けた「geography」ではさらにそれがひどくなって、キャンバスや板の上に、クレヨンによる線が何本か、だーっ、と引いてあるだけで、自分でもこれで本当に良いのかという不安(無意識のうちに「お金のかからない方へ」と向かっちゃってるだけじゃねえの的な疑い)はすごくある。基本的には最近の「Plants」もそんな感じなのだけど、それでも「Plants」では一本一本の線がもっと複雑だし、緊張しているし、線と線との絡み-関係も複雑なのだが、「geography」と仮に名付けた今日描けた作品では、本当に野放図な線が画面上に何本かあるだけなのだ。描く時間も、一点でだいたい十分くらいしかかかってないし。よく、まったく低俗な紋切り型で、ピカソの描いた絵と子供の落書きとどこが違うのか、みたいな言い方があって、でも、普通に見れば違うのは明らかなわけだけど、今日描けた絵では、ぼく自身も、子供の殴り書きとどこが違うのかよく分からない(勿論、子供の殴り書きを「模倣」しているのではまったくない)。でも、ぼくにとって、これによって(風景を描くというのとはまったく違った形で)「地形(のなかを歩く感覚)を捉えた」という感触があったことは確かなのだ。
「Plants」と「geography」の違いを感覚的に言えば、「Plants」は、最初の一本の線、または一つのストロークがあって、そこから次の線、次のストロークへと増殖して、絡み合ってゆくことによって、少しずつある一定のひろがりへと発展してゆくのだが、「geography」は、最初にある一定のひろがりをもった空間が掴まれ、そのなかに線なりストロークなりが配置されてゆく。とはいえ、その最初に掴まれる空間とは、キャンバスのひろがりやフレームとは一致していないし(一つのフレームのなかにそれは複数ある)、実際に手が入ることで空間は動いてゆく(空間の振れ幅が大きい)。いや、そうではなくて、一本の線や一つのストロークそのものが、既にある一定以上の大ききな空間(および、空間内を移動する感覚)を含んでいて、それらが複数モンタージュされると言った方が正確なのかも。
ここで重要なのは、視覚的に捉えられた「風景」を抽象化したような絵になってしまってはまったくダメなことで(それはあまりにも古典的な抽象画だ)、ここで捉えられる空間は、視覚的に捉えられるものではなく、重力と、身体の軸の傾きと、重心の移動との関係によって捉えられた空間であることなのだ。簡単に言えば、ぼくの絵を観る(入力する)ことで、実際に坂をのぼったり角を曲がったり柵を乗り越えたりするのと同等の出力(身体支出)が脳で発生する、というような(だから、ストロークが画家の身体の動きをダイレクトに想起させる、という単純なことでも勿論ない)。その時、観ている自分の物理的身体とは別の、幻のもう一つの身体が出現して、何か行為している、どこかを通り抜けている、というような感じになればなあと。
まあ、これは先走りし過ぎで、そういうところに繋がってゆくかも知れないと期待される「ちょっとした感触」が掴めたという程度なのだった。
この感触を得られたことに静かに興奮しつつ、この感触が一時の気の迷いや勘違いではなく、継続、発展、深化可能な何かであることを祈りつつ、この感触を保持し、簡単には結論を出さず、何度も繰り返し吟味しながら、地味に仕事をつづけます。
(「Plants」シリーズでもまだまだやりたいことはあるので、同時にすすめる。)