セザンヌには、エスタックからマルセイユ湾を描いた絵が何枚かあって(高台から海を見下ろす感じ)、それらの絵には(それらの絵にしかない)、遠くの海が水の量感として迫ってくる圧倒的な感覚がある。セザンヌは、このエスタックという土地、そこから見える海を描くことを通じて、何か決定的なものを掴んでいる。この海-水-青の、遠くて近い感覚のなかに、ぼくにとっての、何度もそこに立ち帰るべき絵画の真実があるように思われる。そして、画集をめくっていてそれらの絵に突き当たる度に、マティスは、この海-青-色面から生まれたのではないかと感じる。
とはいえ、マティスは風景とか土地とかいうスケールの空間を捉える画家ではなく、あくまでスタジオの画家だと思う。マティスにとって風景とは窓から見えるものであって、セザンヌのように、からだ全体をつかってその風土のなかに入り込んで行くという感じは薄い。マティスの身体は常にスタジオに守られている。それによってマティスは、内省的な色彩とでも言うべきものを可能にする。勿論、スタジオの中にも、その土地の光が差し込むし、風が吹き込み、湿気や気温も入り込む。内側と外側とは常に繋がっているし、反転も起こる。
マティスの絵の、画面全体を覆い尽くすような赤のひろがりのなかにある、ごく小さな面積しかないオレンジ色が、そこに注目を向けることによって(というよりもむしろ、そのオレンジそのものに目が捉えられてしまうことによって)、その存在が、その強さが、まわりを支配する赤とその役割を反転させてしまうほどに大きくなってゆく時、そのオレンジの色面の、小さいことの大きさは、セザンヌの海-青の、遠くにあることの近さと同等の出来事としてあるように思われる。