展覧会を観てまわった

●展覧会を観てまわった。気になったものは以下。上野の芸術院会館の文化庁買上優秀美術展(浅見貴子と金田実生)、銀座、資生堂ギャラリーの内海聖史、なびす画廊の利部志穂、ギャラリー21+葉の河野圭一、京橋、ASK? art space kimuraの金田実生。
●特に面白かったのは、なびす画廊の利部志穂。最終日の終了時間間際に観たのだけど、そうでなかったら知り合いじゅうに、面白いから観ろと言ってまわったと思う。この作品を何と説明したら良いのだろうか。とにかく、美術が「面白い」ものであるということを久々に思い知らせてくれる作品だった。美しいとか、完成度が高いとか、考え抜かれているとか、美術史的にどうだとか、そういうことを言う前にまず「面白い」と感じ、観ていてわくわくさせられる。主に鉄を素材にした、様々な太さの(といっても基本的に細い)管状のものが画廊空間に独特に間の抜けた感じで張り巡らされている。それは、針金だったり、水道管のようなものだったり、アンテナの切れ端のようなものであったりして、素材そのものとして示され、あまり加工はされていない。それは、インスタレーションとして空間に緊張を与えているというよりも、素材同士の組み合わせが、チャーミングで、意外で、へえ、と関心させられたり、にやっと笑わされたりするようなものだ。その感触は独自のもので、若林奮を拡散的にしたようなものというか、最盛期の吉田戦車を思わせるというのか、カロのテーブルピースを拡大してユーモラスに(間の抜けた感じに)したというのか、ティンゲリーをクールでスカスカにしたようなものというのか、とにかく、微妙なバランスの外し方や組み合わせの面白さがあり、同時に、鉄という素材に対する繊細な感受性が感じられる。(だから、インスタレーションと言うよりも、鉄の彫刻と言うべきものだろう。)鉄という素材を全面に押し出しているわけではないのに、鉄という物質の何とも言えない魅力が十二分に引き出されていて、かつ、作家の茶目っ気や精神のやわらかさをも感じさせる。垂直に立てられた鉄の管状のものが床に接するところにシャベルが組み合わされていたり、妙なところにいきなり布(衣服?)のようなものが組み合わされていたりするのだが、それが意外(驚き)であると同時に、たんなる意外性を「狙った」というのではなく、説得力があるというか、作家の感覚的な必然性を信頼出来るし、納得出来る。
稀にではあっても、こういう作品をいきなり何の予備知識もなく観られることがあるから、ぼくは美術を観ているのだし、美術というものに関わっているのだ。
●同様に、意外性の面白さと同時に作家の感覚的な必然性とを感じさせるのがASK?に展示された金田実生のドローイングであると思う。それは一見、女性的、生理的なものを感じさせる形態をもつが、同時に、それを強く押し出すことへの抑制と逡巡が感じられ、そこに、複雑さとスリリングな面白さが生じているように感じられる。あきらかに、作家独自の生理的、身体的感覚が基にあると思われるのだが、絵を描くことはたんにそれを押し出すということではないという思慮と抑制があり、あるいは、自身の感覚をどこまで信頼しても良いのかという自己検証の積み重ねがあり、それが揺れやブレを生み、そのブレや揺れがやわらかな運動となり、画面とのやり取りを生み、その逡巡が画面にダイレクトに刻まれるので、それを観るぼくにも簡単に解決できない複雑な面白さが感じられるのだと思う。しかしそれに比べてタブローの作品は、ぼくには不必要に「仕上げが丁寧過ぎる」ように感じられる。その仕上げの丁寧さによって完結してしまっていて、それを観る者に入り込む余地を与えないというのか。この、仕上げの丁寧さは、作家にとって必然的なものであるのだとは思う。(滲み出してくるような光りの感じは、丁寧な仕上げによってしか出せないので。)だが、その丁寧な仕上げの過程のどこかで、ブレや揺れ、逡巡によるスリリングな感じが消されて、硬直し、固まってしまうような感じがあるのではないだろうか、と思った。
●ギャラリー21+葉の河野圭一の作品は、一見、装飾的なマニエリスムにも見える図像をもつ。しかし、それとキワキワのところで、そこから逃れる、絵画の生々しさを掴んでいる。それがとてもスリリングで、観ていてドキドキする。おそらく、装飾的なマニエリスムを逃れるための、制作の複雑な過程と、その過程の間じゅう張りつめている感覚があるからだと思われる。(この展示も今日で終わりだった。)
資生堂ギャラリーの内海聖史の作品は、とても完成度が高い。しかしそれは、既に分っていることを、よくぞここまでの精度と規模でやったというような、いわば努力賞とか皆勤賞のようなもので、「面白さ」や「ドキドキする感じ」とはちがう。多少でも真剣に絵を描いたことのある人ならば、この作品の制作の過程やしくみは、一見して分ってしまう。そういう意味では退屈な絵とさえ言える。あまりにも律儀で一直線で、製作過程でのブレがないので、その構造が丸分りで、骨組みだけで出来ているような作品に見えて、その露骨さにちょっと引いてしまう。ただ、その仕組みが「分る」ということと、それを「実際にする」ということは全く違う。面白くはないけど、ここまでの規模と精度をみせられると、そのかけられた熱量に対しては、なるほど大したものだと感心させられる。というか、感動せざるを得ない。特に、日本という環境のなかでここまでやるのは並大抵のことではない。(日本で絵を描いている人なら誰でもそれは骨身に沁みて知っている。)だから、面白いとは言えないけど、否定することは出来ないし、否定したくはない。がんばってください、と言うしかない。(ただ、この程度の展示では、シアトリカルとは言えても、サイトスペシフィックとまでは言えないと思う。普通の絵画の展示でも、この程度には空間に気を使う。)
損保ジャパン東郷青児美術館で観た作品と、芸術院会館で観た作品の二点で、浅見貴子の最近の方向性がなんとなく掴めた。圧倒的な迫力で画面を覆ってリズムを轟かせていた点が減り、描かれる樹木の幹が細くなった画面は、必然的に白い部分が増える。太い一本の木がもつ圧倒的な迫力を描き取ろうとすることから、複数の枝が絡み合う複雑な空間を描こうとする傾向にかわった、と言えば単純化し過ぎだろうか。地響きを響かせるように画面を覆うことで画面のバランスと安定とをつくっていた点が減って、画面は複雑な空間を招き入れる自由度が増すのと同時に、不安定さも増す。そして、点の数が減るということは、一個一個の点のもつ意味や重要度が増すことでもあろう。確かに、以前の作品のような迫力はやや影を潜めてはいるけど、この自由度と不安定さのなかで、何かを探ろうとしている気配は、濃厚に感じられる。