国分寺のSwitchpointで、利部志穂展(http://www.switch-point.com/2009/0924kagabu.html)。今年観ることの出来た美術作品のなかで、というか、美術作品に限らず、今年触れることの出来たあらゆる作品のなかで最も刺激的だった。利部志穂という作家と同じ時代にいて、この天才的な作家のひとつひとつの展開や飛躍をリアルタイムで体験出来るということは、なんと幸運なことなのかと思う。利部志穂の作品の唯一の欠点は、こんなに面白いのに、その作品をそのままの状態で保存しておくことが出来ないというところにあるのだから。つくづく、引込線を観ることができなかったことが悔やまれる。
それは、外から隔てられた内側としての「部屋」を構成する。しかし、その部屋には、それぞれ異なるやり方で外へと繋がっている無数の通路が開けていて、内側でありながら、外側以上に外であり、無防備に露呈された表面であり、内であることがそのまま外へと反転しているかのようだ。それは、ある空間を構築しているのだが、しかし、その空間の構築から逃れ、独立した、無数の細部がひしめくように共存していて(この、魅力的な細部の作り込みのひとつひとつを十分に吟味するためには、一度観るくらいでは全然足りない)、その細部たちがまた、全体的な空間の構築とはまったく別のやり方で関係性やつながりをそれぞれつくっていて、そのつながりへと意識を向けることで、いくつもの異なった潜在的な空間がたちあらわれる。それは、そこに入ってゆこうとする観者に、ある運動や姿勢を強いるのだが、その、観者の身体の強制的な参加への要請は、観者それぞれに自らの身体性を意識させるというよりも、それをバラすという効果をもっていて、、ひとつひとつの「動き」や「仕草」がそれをしている自分自身から切り離されて、作品の一部となって散ってゆくかのようだ。今回の作品では、映像や音声が導入されることで、内側をかたちづくりつつも、それを外へと開いてゆく通路のバリエーションとその関係性の複雑さが以前に比べても飛躍的に増して、混沌に近いともいえる状況をつくりだしている。
このように書いても、自分の書いている言葉が作品にまで届いていない、空を切っているという無力感がある。利部志穂の作品を観て思うのは、本当に強い作品はそれ自体として自律していて、批評や言葉をまったく必要としない、ということだ。自律しているというのは、それが単体として閉じているのではなく、その外を抱え込み、その外への無数の通路を宿し、観者の身体さえも取り込みながら、それ自体として存在はまったく揺らぐことがない、ということだ。利部志穂の作品を、美術史や美術の現在という文脈のなかで捉えることには、ほとんど意味がないように思われる。利部志穂の作品は、「利部志穂というジャンル」の作品であって、美術作品にカテゴライズする必要さえないようにも感じられる。つまりそれは、美術というジャンルの後ろ盾を必要としない、それ自体として成立している、それ自身として独立して立っている、作品であるかのようだ。
利部志穂の作品を、それとは別の作品と比較するとしたら、それは美術作品であるよりも、カフカベケットドゥルーズといった系譜が見出されると思うのだが、しかし、このような名前を挙げてしまうと、美術とは別の意味での権威を呼び寄せ、別の意味での固着した文脈を呼び寄せてしまうので、やはりそれは禁欲されるべきだろう。そのような権威付け、文脈付けに決して拘束されない動き、その自由さ、破格さこそが、利部志穂という作家のすごいところなのだから。美術というジャンルの基準によって利部志穂の作品が測定されるのではなく、逆に、利部志穂の作品こそが基準となり、それによって、それ以外の美術全体が測定され、問い直される。そのくらいの潜在的な可能性を秘めた作家であるように思われる。