●溝口健二『浪速悲歌』(1936年)、『祇園囃子』(1952年)をDVDで。たしかに『祇園囃子』はとても立派な映画ではあるけど、ぼくはやはり、五十年代の溝口よりも三十年代の溝口の方がずっと好きだと思ってしまうのは、マニアックな心性によるものなのだろうか。五十年代の溝口にあるもののほぼ全てが、既に三十年代の溝口にはあり、さらに、三十年代の溝口には五十年代の溝口にはないものがあるように思える。カメラが動く度、カットがかわる度に感じられる新鮮な驚きが、五十年代のものでは、安定と完成度に取って代わられている。あるいは、そうみえるのは、『祇園囃子』があきらかに『祇園の姉妹』(1936年)という特別な傑作の反復であるからかもしれないのだが。(最近観ていない『西鶴一代女』や『山椒大夫』を改めて観直せば、この印象は多少かわるのかもしれないけど。)『祇園囃子』には、完成度というより解像度の向上というべき描写の細やかさがあり、特に木暮実千代の存在にはまったく文句のつけようがないのだけど、それでも、『祇園の姉妹』や『浪速悲歌』の山田五十鈴の力強さと比べると、どうしても見劣りがしてしまう。(山田五十鈴って声が凄く良いのだなあと、気付いた。良いというのは、心地よいというのではなく、とても強いのだ。)小柴幹治の、粘着質のムッツリスケベぶりが、彼が最初に登場するカットで一瞬にして理解できてしまうような、描写の細やかさは、やはり立派というしかないのだけど。
どうでもいい話だけど、『祇園囃子』には、若尾文子が木暮実千代に突然走り寄って抱きつくシーンがある。このシーンは、若尾文子の動きも、それを追うカメラの動きもいかにも唐突で、この映画全体のトーンから浮いてさえいる。ぼくはこのシーンを観て、『LOFT』(黒沢清)で、いきなりミイラが豊川悦司に抱きつく(首を絞めようとしたのだったか?)シーンを連想してしまった。
●最近の散歩(07/30/13〜16)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo070316.html