●ネットで注文した『三月の5日間』(チェルフィッチュ)のDVDが届いたので観た。
戯曲として読んだ時には、かなり複雑な操作がされているように感じられたのだが、上演されたものを観ると、「語り」の次元でその複雑さそのものが意識されることはあまりなく、つまり割と分り易い。上演では、(1)言葉(声)による「語り」によって表現されるもの、(2)その言葉にある程度伴いながら(しかし完璧に一致しているわけではなく)なされる身体的な身振りの表現性、それから、(3)必ずしも語りの次元に伴わない、それ独自の流れと次元をもつ身体的な身振りの表現性、さらに、(4)表現するものとしての身体とは別の、ふっと表現の次元から滑り落ちた「素」にみえる、あるいは対象化されたものとしてみえる身体があらわれる感じ、という、ざっとこの四つくらいの「別のもの」が同時に、現れたり消えたり、重なったり絡み合ったり分離したりしながら進行してゆく感じだった。俳優が、ある役の人物として語ってたいのが、ふいに、その「役の人物について語る人物」として語り出し、さらに、それまで横にいて闇のなかにしゃがんでいた別の俳優が、その俳優を指し示しながら、その俳優を「役の人物」として外から説明しはじめる、という流れのなかで、同じ一人の俳優の身体の見え方というか、たちあらわれかたが、語り(というか「表現」)の次元の変化によって、刻々とかわってゆく様がとてもスリリングで面白い。(だから「語り」の複雑さは決して語りの次元だけの問題を提示しているではなく、むしろ身体による表現性、あるいは非表現性の立ち現れ方の次元の異なりを組織し、組み合わせるためにこそ、採用されているように思う。)それまで、語る人として、表現する身体として動いていた俳優が、傍らの俳優に語りを譲ったとたんに、急に、よるべなく「晒された」ような、対象化された身体へと滑り落ちる感じなど、とても鮮やかに示されていると思う。語り(戯曲)の段階だけでもかなり複雑なことをやっているのに、上演ではさらにもっとずっと複雑な要素が加えられ、にも関わらず全体としては割合分り易く、すっきりとしている。少なくとも、語られる「物語」の次元で混乱することはない。
●俳優たちは皆、言ってみれば、同じような年齢の人たちばかりで、同じような感じの台詞を喋り、同じような感じの身振りをするのだが(同一人物の役を複数の人がやったりもするのだが)、だからこそ、個々の俳優の身体的な特徴というか、固有性のようなものが、おそらく演技の質というようなものを越えて、ニュアンスとしてまではっきり感じられるところは、本当に面白い。(この感じが、ぼくの嫌いな「演劇的なもの」との最も大きな違いであるように思う。)
上演された会場の都合があるのだろうが、DVDの映像では、カメラの位置があまり良いとは思えなくて、俳優の動きを必ずしも最良のポジションで捉えているとは言い難い。しかし、映画が好きな人はつい、カメラの位置だとか照明だとかがすごく重要なものであるかのように考えてしまうのだが(いや、勿論それは絶対に重要なのだけど)、俳優がちゃんとした充実した動きをしていて、それがある程度分るように撮られていさえすれば、それはそれだけで全然OKなのだと、改めて感じさせられた。