ロバート・アルトマンの『ウェディング』をDVDで。時間的な展開(物語、アクション)ではなく、あくまで空間的な広がり(配置、関係性)によって映画を成り立たせようとする映画。とはいえ、映画は始めから終わりまで順番の決まった時間的な展開によって示されるしかないのだから、広がりによってそれを組織しようとすることは、映画の時間を停滞させ、それを破綻させることに繋がりかねない。この映画では、ひたすら関係が横に広がってゆくだけで、その関係自体に何かしらの変容が起こることはほとんどない。この映画で起こる出来事(変容)とは、花婿の祖母が死に、花婿の父が全てを捨てて出て行く、ということくらいだろう。あとはただ。結婚式の後のパーティーの馬鹿げた喧噪がつづくばかりだ。中心となる人物も存在せず、人物同士の関係に何かしらの決定的変化があるわけでもなく、ただ、そこに集まる人たちの断片的なエピソードが重ねられ、そのエピソードの積み重ねによって、そこの集まる人たちの関係性の図柄が徐々に見えてくる。(だからここでエピソードの示される順番は、因果関係に沿った出来事の順番ではなく、観客に対して開示される情報の操作された順番であろう。)つまり図にして示せばすぐに分るものが、わざわざ時間の展開のなかで、分りづらいような順序で示される。しかしそこで観客の頭に起こる軽い混乱が、結婚式の後のバーティーの喧噪と混じり合うことで、観客は我を忘れるような混乱に巻き込まれ、その混乱の感触を楽しむ。観客として、その混乱をやや距離をもって眺めることの出来る位置を確保しつつ、半ば、自分もその混乱のなかにいるような感覚を得る。観客はこの混乱によって一時、自分自身の「位置」を忘れる喜びを享受する。久々に観直して、この作品はやはり、「アルトマンに影響されてつくられた一連の群像劇」などとは異なる、独自の感触をもつ傑作だということを確認しつつ、しかし同時に、「アルトマンに影響されてつくられた一連の群像劇」のもつ欠点の多くが、アルトマン自身に由来するものであるということも間違いないように思えた。
●久々に観てみて、『マグノリア』のあの蛙のネタ元が、やはり『ウェディング』にあったことを発見した。それと、これは「ネタ元」というのとは異なるのだが、ラストに近いシーンをみていて、まるで『たまもの』(いまおかしんじ)みたいだと思ったのだった。この映画の花嫁の姉のキャラクターが、ほぼそのまま『たまもの』の林由美香と重なってみえたのだ。しかもその傍らには、あのボーリングの玉男とそっくりな、真っ黒に塗られた銅像まで出て来るのだから驚いた。
花嫁の姉は、花婿と関係があり、花婿の子供を身籠っているらしい。しかし彼女は実は、花婿だけでなく、その大学の宿舎にいた男子学生のほぼ全員と関係があるらしいことが知れる。どうやら彼女は頼まれると嫌とは言えない人のようだ。それを知ってあきれた花嫁の家族は、姉だけを残して皆帰ってしまう。一人残された彼女は、パーティーに来ていた花婿の父の弟(英語が話せない)と関係をもつ。花婿の父は、スペインからアメリカの金持ちの家に逆玉のような形で養子に来た人物なのだが、息子の結婚バーティーの喧噪で上流階級への嫌気がさし、恩人でもあった義母が亡くなったこともあって、自らの役割は終えたと感じ、地位も財産も家族も捨てて家を出ようと決心する。その時、まだ花嫁の姉と行為中だった弟を連れて出るのだが、その、家を出る花婿の父とその弟を見送る花嫁の姉の姿(その何ともつかみ所の無い表情)と、その傍らに置かれた(白目だけが異様に白い)真っ黒い銅像との場面が、ものすごく『たまもの』の感じを連想させるものだった。花嫁の姉は、映画の始めの方ではいくつか台詞があるものの、後半はほとんど何も喋らない、というのも『たまもの』の林由美香とつながる。もし、いまおか監督が『ウェディング』のこのシーンから、『たまもの』のなんとも不思議なあのキャラクターの発想を得たのだとしたら、それはとても納得のいく話だと思ったのだった。