対人関係(パフォーマーと観客と作品と)

●ダンスや演劇などのパフォーマンスでは、観客が演者を観ているだけでなく、演者もまた、観客を観ている。勿論その視線は決して対称的ではないが、しかし観客がただ観ているだけでなく観られてもいることの意味は大きい。例えば、一人で部屋に居て、本を読んだり、DVDを観たりしている時、その読者(観客)は、作者なり演者なりから観られているわけではない。だから読者(観客)はその作品を受容している時、作者や演者に一切気を使う必要がない。飲んだり食べたりしていても良いし、眠ってしまっても、誰かと電話していてもよい。一人で居る読者が本を読んで「笑う」としたら、それは作者に気を使って笑っているのではなく、たんに「笑える」から笑う。
だが、例えば映画館で映画を観るとなると、多少事態はかわってくる。映画を観ている時も、作者や演者は観客を観ているわけではない。しかし、観客が複数になることで、そこにひとつの場の「空気」が生まれる。自分はまったく面白いと思わないところで場内が爆笑につつまれたり、誰も笑っていないところで大声でゲラゲラ笑ってしまったりすると、多少は気まずい思いをする。気まずい思いをするだけならよいが、意識しないうちに「空気を読」んで、他人と笑いが同調してしまうことすらあるかも知れない。
ダンスや演劇となると、その演者は観客と対面している。勿論、観客の一人一人と一対一で対面するわけではないから、観客は演者ほど緊張することはないだろう。しかし、演者は、観客全体の雰囲気は感じているし、観客は、演者がそれを感じていることを知っている。つまり、観客の反応をひとつの「評価」として演者が感じていることを、感じている。誰だって、人と向き合っている時、例え相手の話がひどく退屈だったとしても、あからさまに退屈そうな様子をみせたり、チラチラと頻繁に時計を観たりすることは遠慮するだろう。(無意識にそれが出てしまうことはあっても。)相手が、なにかしらの冗談を言ったことが分かれば(つまり、ここは「笑うところだ」というサインが読み取れれば)、それがつまらなくても軽い愛想笑いのひとつもうかべるだろう。これは礼儀というより、対人関係において(それにうんざりしていたとしても)自然に出てしまう気遣いのようなもので、それは「場の力」として強く働く。映画を観ていて退屈だと眠ってしまうことに何の心理的抵抗もないが、それが演劇やダンスだったら、抵抗があるだろう。途中で席を立って帰るなどということは、かなり強い「否定」の意思がなければ出来ないだろう。
このような対人関係における気遣いは、必ずしも意識的なものではない。人は、誰かが言うことが面白いから笑うというだけでなく、その誰かが「笑い」によって場を和ませようとしているのだという「意図」を感じて笑う。そして実際に笑えば場は和み、冗談を言った方も笑った方も気分が良くなる。場が和み、気分が良くなるのであれば、その冗談が面白かろうが、面白くなかろうが、それは大した問題ではない。そこで重要なのは、場が和むということであり、関係が上手くゆくということだ。そして人は、おそらく新生児と母親というような関係からずっと、このことを学びつづける。だからその「笑い」が結果として良いものにむすびつけば、それは事後的に「面白かった」こととなってしまうかもしれない。(これは逆の反転形もあって、ケンカすることによって充実感を得る、ということもあり得るのだが。)
パフォーマーと観客との関係は、このような対人関係を完全に切断することは出来ない。観客は、自身の反応が演者を喜ばせもするし落胆させもすることを意識して振る舞うことになる。いや、それは意識さえしていないレベルでの気遣いとして作用する。観客がパフォーマンスを観て「笑う」時、それが面白いから笑うのか、それとも無意識のうちに働く気遣いの作動として(ここは「笑うところだ」というサインを感知して)「笑う」のか。勿論、観客と演者との関係は、その公演の時に限定された希薄な関係であるから、観客は会社の上司に対する時のような強い気遣いが作動するわけではない。しかし、演者もまた生身の人間であることを知る観客は、その「実物」を目の前にして、全く気を使わないでいることは出来ないだろう。
部屋で本を読む時、その作者が目の前にいるわけではない。ギャラリーで絵を観る時、その作者が後ろに立っているわけではない。(いや、そういうことが全くないとは言えないけど。)後で、直接その作者に感想を言うときは、何かしらの気遣いは生じるだろう。しかし、作品を受容し、判断しているその時は、気遣いを作動させる人間関係の外に、ある意味徹底して利己的な場に(暫定的にだとしても)立っている。(本がつまらなければ最後まで読む必要はないし、絵がつまらなければさっさとその場を去る事が出来る。そこで、その場にいない作者に「気を遣う」必要はない。)つまりそれは「場の力」からの切断ということで、ぼくにはこれが「作品」というものの経験のとても重要な要素だと 思っている。
しかし、パフォーマンスにおいては、観客は人間関係を完全には切断できない。この点で、ぼくはどうしても「警戒感」を消すことが出来ない。(ぼくにとっては、観客の気遣いをどの程度「切断」し得てていて、抽象化出来ているかが、パフォーマンスの「密度」と密接に関係するように思える。)これは、ぼくが考えている「作品」としては重大な欠陥だが、しかし、それをまた、まったく別の可能性として考えることが出来ないわけではないし、そこを追求しようと人がいることも理解出来ないわけではないのだが。