●『獣になれない私たち』、第五話から第七話。このドラマは本当に構造がきれいな形をしているなあと思いながら観ていた。まるでチェーホフの戯曲のようにきれいな形だし、まるで50年代のスクリューボールコメディみたいにきれいな形だ。とはいっても、古典的な形をなぞっているというのではなく、現代の風俗を描き出すための、新しい「きれいな形」を作り出している。
基本的に、出来事Aに対して出来事A`、出来事Bに対して出来事B`という、相似的または対称的な形の出来事を、異なる文脈(人物)の上に遅延して現れるように配置し、多数の相似(対称)形の遅延的な現れがモアレ的に複雑に重なり会うことで、展開(関係や認識の変化)が生じるという形になっている。
これにより、まったく異なる境遇にあり、まったく異なる性質をもった人物たちの間に同形的な共鳴が起こり、誰も彼もが同様に複雑な状況を抱え、しかし、その内実はそれぞれ異なっているという様がとてもエレガントに表現される。
ある側面からみれば皆似たり寄ったりであり(個々の位置の違いは偶発的で、交換可能であり)、しかし別の側面からみればそれぞれ異なる来歴や文脈の上にいるので、同じような出来事でも価値やそこから受ける衝撃や打撃の度合いは異なり、人のことは他人からは予測不可能である(相手に対する想像は常に及ばない)。他人はある程度は私であり得るが(すくなくとも「私であり得たかもしれない可能性をもつ」ということは理解できるが)、しかし現実として私はわたしであって他人ではない。同形(対称)的出来事の遅延的反復を通じて、限定された様々なパースペクティブの間でマイナーな視点の交換は多数生じるが、そのことによって「私を拘束している文脈」から全面的に出られるわけではない。しかしそのマイナーな視点の交換(位置の交換可能性があることを知ること)が、特定の文脈、特定の関係に拘束されている固有の私を相対化し、(私が、私を形作る関係に働きかけることで)少しずつ変化させていく。
このドラマは、特定の人物に思い入れをしたり感情移入したりすることはできないようにつくられている。観客にとっても、あらゆる登場人物が幾分かは私であり得、そして誰もが決定的に私ではないという認識を強いる。しかしそれは、俯瞰的に(他人事として)関係の推移を見ているということとは違う。あらゆる登場人物が幾分かは私であり(あるいは、私であり得たかもしれないと想定されるような誰かであり)、そのような多数の「私たち」の、それぞれの側面の現れや関係が展開とともに変化していくことで、観客としての私もまた、マイナーな視点が交換されている物語の場におけるパースペクティブの一つとなる。
私は、固有の文脈の上に置かれた固有の私であり、同時に、様々なパースペクティブの交換を可能にする場(様々なパースペクティブが実際に交換されている、交錯しているその場)としての私でもある。このドラマは、その卓越した技巧と形式により、観ている者をそのような認識に導くように思う。