●『獣になれない私たち』について、もうちょっと。
私には、他人のことを完璧に知ることは出来ないし、他人の位置(パースペクティブ)とぴったり一致することは出来ない。しかし、(たとえ知りたくなくても)他人のことを幾分かは分かってしまうし、私と他者とのパースペクティブは幾分かは交換可能である。そして、他人を幾分かは分かってしまうこと、他人の視点に配慮することができてしまうことによって、多数の他人たちからの視点に絡みとられ、私は「私が現にそうである位置」に拘束され、どうどう巡りに陥って動けなくなってしまう。これは、特定の人物(たとえば主役の新垣結衣)だけがそうなのではなく、それぞれの人物が、それぞれ異なるあり方で、同様にそうなのだということが次第に分かってくる。
(松田龍平は「バカになれれば楽なのにね」と言うが、もしも誰かがバカ---あるいは獣---にみえたとしても、結局誰一人としてバカにはなれないのだ。)
一方で、他人のことを(嫌でも)幾分かは分かってしまうことが私を「私が現にそうである位置」に拘束するのだが、しかしもう一方で、他人のパースペクティブと幾分かは交換可能であるという事実を媒介にすることによってしか、私が「私が現にそうである位置」から抜け出すことが可能にならない。バカになろうとしても無駄なのだ。結局、同じこと(パースペクティブの限定的な交換可能性)の異なる側面が、私を拘束しもするし、「私」や「関係」が変化するための媒介にもなり得る。
ドラマは、綱渡りのようにこの二つの側面の間を巧妙にぬってすすんでいき、拘束するものが同時に変化のための媒介であり得ることを示そうとしているようにみえる。